KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年8月号
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しい」「真面目ぶっていると思われる」という葛藤が生まれているのだろう。けれど僕はそれを断ち切りたいし、先生もそれを断ち切ってあげてほしい。だから「自分」として訊きたがっている子の存在に気づき、質問をしてくれるような会場の雰囲気へといかに持っていくかが勝負だ。きっかけさえ与えれば、本当に質問がしたいと思っている子が手を挙げて一気に流れが変わる。僕はそんな場面を何度も見て感じてきた。 僕はどの子にも、ちゃんと「自分」として参加して、他人に惑わされないようになってほしいと強く願っている。だから、いかに当事者意識を持ってもらうかが一番大事なのだ。世の中に出たら、どんなことも「自分」として参画していかなければいけない。だからこそ学校にいる間に、せめてそこだけでいいから学んでほしいと思っている。 子どもの頃に当事者意識を持たずに多くの場面を過ごしていると、社会に出て僕たちと一緒に仕事するときに戸惑ってしまう。「自分」として参加してきた経験が少ないから、いざ「自分」として参加しなければならない場面が目の前にきたときにうまくいかず、どうしたらいいのかわからなくなってしまうのだろう。今の学校は当事者意識が無くてもいい空間になってしまっている気がする。先生は忙しくて大変だろうが、それを何とかしてほしい。 僕は学校で子どもたちだけに話をしているのではなく、先生や保護者など大人たち全員に向けても話をしている。その場で僕が問題だと思ったことを、いつも児童や生徒と向き合っている大人たちこそが気づくべきだと思うが、そうではないのはいつしかその状態が普通だと思ってしまい、意識せずに毎日を過ごしてしまっているからなのだろう。違和感を抱かないのは、大人たちの当事者意識が薄いからではないかと思うこともある。だからたまに学校へ行く僕たちが、「おかしくないですか?」と声を掛けることで、慣れてしまっている先生に目を覚ましてもらう必要があるのだ。 当事者意識とは「自分だったらどうするか?」を常々考えることだ。考える習慣が身につけば行動が変わる。そしてその答え合わせの時、それがレベルの上がる瞬間となる。小さなことを考えない人は、大きなことや重要なことを考えるときにどうして良いのかわからない。普段から考えるクセをつけること。これは本当に大切なことだ。 子どもたちに当事者意識を身につけてもらうためには、まず大人が当事者意識を持って考えることだ。考えることを放棄し、諦めている大人たちに育てられている子どもの未来は、果たして明るいだろうか?子どもたちはどことなく大人を見ているものだ。そして考えていない大人に対し、「もうちょっとちゃんとやろうよ」と思っているに違いない。35

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