KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年8月号
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横尾 お客様はクラシックのファン? 今までの玉置さんのファンが多いの? 玉置 クラシックのファンの方も多いですね。オーケストラのファンの方もたくさんおられますしね、コンサート会場の雰囲気もだいぶ変わってきました。横尾 僕は何年か前から、難聴が激しくて、補聴器をつけているんですが、そうすると音は聴こえるけど、音楽になってない。ヘッドホンをすると半分以下しか聴こえず、自分の中にあった音楽が半分になったようで寂しくて、音楽を聴いてももったいないし、音楽から少し遠ざかっていたんです。 だけど自分なりに努力をして、今僕が聴こえる音をもとにして、自分で音を作ったりして、僕なりに、僕のために、僕に一番合う形で音楽を聴こうとしている。聴くことのクリエイターみたいなものです。これがおもしろいといえば、おもしろい。不思議なの、演奏者の一人にもなってる気がするわけ。音楽家が僕みたいな状態だったら、おもしろい音楽が作れる気がしますね。神戸の印象について―横尾さんは西脇市のご出身、玉置さんはコンサート等で兵庫県にも来られていますが、神戸の印象はいかがですか。玉置 神戸というと、なんか、物ごとが始まっていくようなイメージです。西宮でのコンサートの後は、神戸のホテルにも宿泊しますけど、神戸なんか住んでみたいなあと思いますね。横尾 僕が神戸にいたのは高校を出てすぐの頃で、1950年代かな。西脇から見たら神戸は大都会でしたね。僕はもともと、神戸新聞の「読者のページ」にカットを送ったりして、しょっちゅう掲載されていましてね、その常連の投稿者5人と集まって、神戸の元町の喫茶店で絵の展覧会をしたんです。 ある日、神戸新聞の図案課のえらい方と、イラストレーターの灘本唯人さんが元町を歩いていたら、のどがかわいたっていうんで、その喫茶店に入ったら2階で展覧会をしていた。そして僕の絵を見て、灘本さんが「この子、神戸新聞に入れたら?」とおっしゃったそうで、その一言で僕は神戸新聞に入ったわけです。 当時、神戸新聞の新聞会館はまだ元町にあって、1年後に神戸新聞会館が落成した、その7階建ての建物が、兵庫県下随一の高層ビルでした。そこで最初は誰かのアシスタントで、文字を書いたり、小さな広告を作ったりしていたのですが、事業部のポスターをピンチヒッターでやることになって、そこで作った僕の絵がとても評判が良かったということで、ポスターのデザインをするようになりました。 これがおもしろくてしょうがなくて、そうしたら灘本さんが、日本宣伝美術会(日宣美)という全国区の公募展に応募したら、と助言をくださった。そこで奨励賞をもらいまして、20歳のときに会員に推薦していただきました。日宣美は優秀なデザイナーが集結していて、当時はここの会員にならないとデザイナーとして仕事ができませんでしたからね、そして上京し、今の僕があるんです。子どもの頃は郵便26
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