KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年8月号
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み、両親を説得しました。―反対されたでしょうね。 4年間で大学は卒業すること、今後は親を一切頼らない、バイトしながらなどと考えず音楽一本で食べていくこと、というのが条件でした。―厳しいですね。 無収入の状態ですから、飛び込み営業をして必死でした。社会に出てこのパッションをずっと維持し続けることができるのかと親としては心配だったのでしょうね。そのお陰で、自分の中で覚悟が決まったと今では感謝しています。―それから十数年、パッションを維持してきたのですね。 神戸を拠点にして、自分の力でやっていくと決めていましたので、個人事業主としてどうしたら活動を広げていけるかを創意工夫する面白さもあって続けてこられたと思っています。ありがたいことに、人とのつながりが広がり、少しずつ仕事も増えてきました。―震災を伝えようという思いはいつから? 震災当時は中学2年生で、とても怖かった記憶があります。直接の被害は受けなかったのですが、先生からの提案で募金活動や仮設住宅訪問などを経験しました。それが震災を伝えようという原点になったと思います。そして東日本大震災がそこから一歩踏み出すきっかけになりました。―ボランティアに行かれたのですね。 震災2カ月後に宮城県石巻へ行きました。「作業の後、避難所で慰問演奏をしませんか」と提案いただき、お受けしたものの、歌で喜んでもらえるのか?何を歌ったらいいのか?結論が出ないままヒット曲がいっぱい入った歌集を持って行き、「聴きたい曲をリクエストしてください。よかっ―音楽との出会いは? 中学生のころ、BzやWANDS、ミスチルに憧れ、バンドで歌いたいと思ったのが原点です。倉庫から父のギター引っ張り出してきて弾いていました。高校に入ってから本格的に始め、パソコンを使って自分でCDやオリジナル曲を作ることも始めました。―卒業後は音楽の道には進まなかったのですね。 担任の先生から「つぶしが効くように大学に行っておいたほうがいい」と言われ、深く考えずに神戸大学法学部に入ったものの、自分が来るべきところじゃなかったと(笑)。オリジナル曲を作ったり、ライブ演奏をしたりと学外で活動をして、「音楽でやっていける」という手応えをつか防災も環境も福祉も、音楽でつなぎたい52

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