KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年5月号
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造船所も倒産の危機に瀕していた。そこで、その立て直しを担う人物として釟三郎に白羽の矢が立った。最初は断った釟三郎だが、もし倒産すれば川崎造船所や下請けなど関連会社の社員、さらにその家族を合わせ神戸の住民の2割が困窮してしまうというので、実業家としてではなく社会奉仕として昭和6年(1931)、金融機関との融資をめぐっての和議整理委員を引き受けた。 ゆえに報酬はゼロ。だが、債権者と粘り強く交渉し和議をまとめ、さらに社長に就任して組織改革と管理の徹底を進め、爪に火をともして捻出した資金で設備投資をおこない生産性の向上に努めた。一方で労働条件の引き下げに労働組合の反発があったが、やがて無償で奮闘する釟三郎の奉仕精神や当時としては珍しかった情報公開が労働者の心を動かし、労使一体となって危機に挑み、川崎造船所は危機を脱した。ちなみに釟三郎は労働者の福利厚生にも力を入れ、東山学校や川崎病院を設けている。 釟三郎はさらに、イギリスで協同組合の活動に関心を寄せていたこともあり、神戸購買組合を立ち上げた賀川豊彦に共鳴。実業家の那須善治を賀川に紹介し、賀川の熱意に心を動かされた那須は大正10年(1921)に灘購買組合を設立した。戦後、神戸購買組合と灘購買組合は合併し、現在のコープこうべとなり、世界屈指の規模を誇る生協に発展している。 晩年は貴族院議員や文部大臣、あるいは枢密院顧問官など、国策関係の要職を歴任したが、これもまた国への奉仕という思いで臨んだ。父や曽祖父から受け継いだ武士道と英国で培った紳士の精神を胸に、世界と未来を見つめ、身を粉にして社会に尽くした釟三郎は、日本の敗戦を見届けたように昭和20年(1945)の11月に人生の幕を下ろしたが、彼の蒔いた種は戦後大きく花を咲かせ、豊かな実りを神戸に、日本にもたらせ、我々もまた知らず知らずのうちにその恩恵にあずかっている。住吉の平生釟三郎の自宅跡は、現在、平生記念館となっている。門構えが今も残る参考文献平生釟三郎『平生釟三郎自伝』小川守正・上村多恵子『平生釟三郎伝』「阪神間モダニズム」展実行委員会編著『阪神間モダニズム 六甲山麓に花開いた文化明治末期~昭和15年の軌跡』山本ゆかり・萬谷治子・加藤拓郎「旧住吉村の住宅地開発とその特徴-日本の近代萌芽期における郊外住宅地-」住宅総合研究財団研究論文集No・31甲南学園広報部『甲南Today』No・34ほか茶道藪内家ホームページ ほか46

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