KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年5月号
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し、各人の天賦の才能を引き出す」という釟三郎イズムがより教育現場に浸透、自由な校風の中、多数の優秀な人材が輩出したことは言うまでもない。学生が治安維持法違反に問われても処分せず、「一つの思想に偏ることなく広く勉強せよ」と諭したという。また、人格形成の一環として体育を重視し、釟三郎もまたラグビーの熱烈なファンだった。身を挺して神戸のために 釟三郎は数々の社会事業に尽力し、神戸の発展に尽くした。御影山手の甲南病院もまた、釟三郎によって昭和9年(1934)に開院。営利主義ではなく患者本位で、貧しい者でも腕の確かな医師にかかれるようにという釟三郎の理想を叶えた。 甲南病院はホテルライクなロビーやサンルームなどアメニティ充実、無料送迎バスまで運行した。また、当時としては画期的な完全看護制を採用し、その役割を担う意識やスキルの高い看護師を養成すべく看護師の養成所まで開設。病院の食事にも心を砕き、栄養に配慮するだけでなく、希望すれば医師の許可の上、追加料金で肉汁やプリンなども注文できた。 サービスで医療へのイメージを変えた甲南病院は、開院直後に神戸を襲った室戸台風の際には負傷者の救済にあたったほか、近隣に無料診察券を配布するなど地元へ奉仕。その精神は阪神・淡路大震災時にも受け継がれ、現在も災害医療の砦のひとつとなっている。また、開院当時から地域の開業医と協力関係を築いたが、この取り組みは現在の病診連携のお手本とも言える。 釟三郎は住吉に移り住む前に最初の妻と2番目の妻を3年のうちに相次いで亡くしている。そんな辛い体験も病院設置へと突き動かしたのかもしれない。 さて、昭和初期の神戸は、「東洋のウォール街」と栄華を極めていた時代から一転、第一次世界大戦後の世界的不況に関東大震災が輪をかけた長く暗い不景気の波に呑まれていた。そして神戸を代表する企業、川崎かつて住吉にあった平生釟三郎の自宅御影山手に開院した甲南病院学校法人甲南学園所蔵資料45

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