KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年5月号
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ぐれた住環境があるが教育環境が未熟ゆえ開発が進まないので、先住の実業家有志で特別な小学校を建設しようと思うが、教育経験者がいないので兵庫県立神戸商業学校校長の経験をもつ釟三郎に発起人になってほしいと懇願した。釟三郎は家計の事情により金銭の負担がなければと答え、弘世もこれを了承した。 かくして明治44年(1911)、甲南幼稚園が開園、翌々年に甲南尋常小学校が開校し、発起人には釟三郎、弘世のほか住友財閥の田辺貞吉、数多くの電力会社や電鉄会社の設立に関わった才賀藤吉、住吉や雲雀丘を開発した阿部元太郎、建築家の野口孫市、ほかにも小林山郷、進藤嘉三郎ら11人名が名を連ねた。土地は住吉村から反高林の3千坪あまりが無償で提供された。 ところが入学児童が少なくすぐに運営につまずき、発起人で不足金を立て替えることになった。金銭上の負担がないことを条件に発起人になった釟三郎が資金を工面した一方で、他方では発起人の数名は逃げてしまう。残った釟三郎、田辺、才賀、阿部、小林、進藤は議論を重ね、一時は廃校も考えるが、教育事業は企業経営と違い、財政難で投げ出す訳にはいかないと釟三郎が経営を引き受け、学校の川向かい、現在のオーキッドコート一帯に大邸宅を構えていた鉱山王・久原房之助の援助を仰いで窮地を脱し、やがてその教育内容が評価されて入学希望者が増え、運営も軌道に乗っていった。 その後、伊藤忠商事の二代目伊藤忠兵衛や安宅産業の安宅弥吉から援助・協力を得て、大正8年(1919)にいまの甲南大学岡本キャンパスの地に甲南中学校を開校、さらに大正12年(1923)には7年制高校へ発展、戦後、甲南大学へと飛躍していく。 中学校創設当時はこの裏手の岡本山に二楽荘が聳えていた。二楽荘とは明治42年(1909)に西本願寺門主の大谷光瑞が建てた「六甲の天王台」と評されるほど壮大かつ壮麗な邸宅で、麓からは3本のケーブルカーで結ばれていた。ところが大正3年(1914)に閉鎖され、久原の手に渡る。久原は校舎の資材を提供するとともに、釟三郎へ二楽荘の永代使用権を譲渡したいと申し出たが、昭和7年(1932)に二楽荘が焼失するなどして叶わなかった。もし二楽荘の活用が実現していたら、甲南の学生はケーブルカーで通学していたかもしれない。 大正15年(1926)、釟三郎は甲南学園の理事長に就任、昭和8年(1933)には校長となり、「人格の修養と健康の増進を重んじ、個性を尊重昭和18年(1943)頃、住吉の自宅にて学校法人甲南学園所蔵資料44
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