KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年5月号
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火災保険)に入社して渡英。その後は実業界で活躍した。教育への熱い心 釟三郎は明治33年(1900)に大阪支店長と兼務という形で神戸支店長に就任、その後外遊し、帰国後は家庭の事情もあり健康的な住まいを求め、縁あって明治41年(1908)、大阪の社宅から住吉村に移り住んだ。当時の住吉村は住吉川に沿う反高林、観音林が開発され分譲がはじまった頃だった。 長い海外経験の中、釟三郎は世界で通用する人材の育成とともに、資源の少ない日本では科学技術の発達が不可欠ゆえ、科学者の養成も肝要と考えるようになる。一方、釟三郎は高等教育を受けられたのは給費生として支えてくれた国のおかげ明治40年(1907)、東京海上時代の平生。後に社長となるが、50歳で財界を去り、教育の道に進む昭和12年(1937)、旧制甲南高校での銅像除幕式にて大正9年(1920)の甲南小学校。創設は明治45年(1912)という思いを常に抱いていて、いかにして国に報いるべきかとの思いを強くしていた。そこで優秀だが資金に困っている学生を私費で支援しようと考え、当時東京帝国大学(現在の東京大学)へ多数の学生を送り出していた第一高等学校(現在の東京大学教育学部)の校長、新渡戸稲造に学生の推薦を依頼する。ところが反応がなく、再度お願いしたがすぐ退任、後継の校長にも申し送りせず事実上無視の扱いに。釟三郎は教育者の不誠実さと無責任さに幻滅する。やむなく、釟三郎は明治45年(1912)、自ら奨学金制度(後の拾芳会)を立ち上げ、一部の学生は自邸に住まわせ、夜は食卓をともに囲むなど温かく接し、師弟同行教育を実践したのだった。 そして、貧困に苦しみつつ努力して優等生になったという男を娘の結婚相手にと目したが、実はこの男がかなりの奸物で女癖も悪く、釟三郎の思いやりにつけ込んで金までだまし取った事件が起こった。これと、先の奨学生推薦の件とを通じ、日本の教育方針は知識を詰め込んだ者が優秀と評価し人格を重んじていないと痛感した釟三郎は、学校教育こそ人物を養成することを目的とすべしという思いを新たにする。 そんな折、同じく住吉に居を構える弘世助太郎(日本生命社長)が来訪。そして、住吉はす学校法人甲南学園所蔵資料学校法人甲南学園所蔵資料学校法人甲南学園所蔵資料43

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