KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年5月号
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イを志し横浜へ出ることを決意する。しかし、働き口が見つからず、長兄の支援を受けて私塾に通い貧しい書生生活を送る。そんな釟三郎の目に飛び込んできたのが、東京外国語学校露語給費学生募集の広告。喜び勇んで応募し、見事入学する。 だが最終学年の5年になる時、学校が廃止され東京商業学校の語学部として編入、さらに政府の命により語学部も廃止、給費も取りやめになってしまう。卒業目前ゆえに呆然とした釟三郎だが、もともと商人を目指していたこともあり、これ幸いと商業学校への転籍を目指すことに。一方で釟三郎とともに主席の座を争ってきた長谷川辰之助は、これを機に文学で生きていくことを決意、それを父に伝えると「くたばってしめぇ!」と怒鳴られ、それを転じ「二葉亭四迷」という名で文学史に名を残した。 商業学校への転籍にともない、釟三郎には学費という重い課題がのしかかってきた。そこで釟三郎は最終手段に打って出る。時言の知人の遠戚である裁判所の判事補、平生忠辰が娘婿として迎えたいという話に乗り、平生家の養子となり援助を受けた。かくして平生釟三郎となったが、その後再び給費も認められ、安心して勉学に励みボートや演劇で青春を謳歌。学校も高等商業学校となり、その第一期生として明治23年(1890)に卒業した。高等商業学校は現在の一橋大学の前身である。神戸との最初の接点 朝鮮政府から税関職員に卒業生を紹介してほしいと、高等商業学校の初代校長、矢野二郎に依頼が舞い込むと、矢野は一も二もなく釟三郎を推薦。これを受諾し現地へ赴く際に神戸港から出発したが、これが釟三郎と神戸の最初の接点のようだ。 釟三郎は朝鮮で勤務したが、はたまた矢野校長から兵庫県立神戸商業学校が荒れているので立て直してほしいと依頼があり、校長として明治26年(1893)に赴任する。知事や県議会を説得し、予算増加を勝ち取って体制を整備、授業をボイコットしていた生徒へは「商人を目指す者は浪費すべきではない。県からの支出や父兄からの授業料を受け取って勝手に休校するとその費用は無駄になるではないか。こんな簡単な利害の判断ができない者は、我が校の生徒の資格はないから立ち去れ」と説き、校紀の乱れを正した。 学校の再建に成功しつつあり、教育という仕事にやりがいを感じていた釟三郎だが、三たび矢野校長から説き伏せられ、東京海上保険(現在の東京海上日動明治18年(1885)、東京外国語学校時代の平生。前列右から3人目学校法人甲南学園所蔵資料42

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