KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年5月号
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名付け親は曽祖父 平生釟三郎はもともと美濃国加納藩の名門田中家の出だ。曽祖父の田中熊造は実に聡明な人物で家運が傾きつつあった田中家を再興したが、嫡子の要助は3歳の一人娘、松を残し28歳で亡くなってしまう。熊造は悲嘆の中、家を守るため松の婿を探すが、藩内には眼鏡に適う男子がいない。ところが松が17歳になった頃、そこに彗星のごとく現れた男がいた。 それは、高田村(現在の岐阜市)の庄屋、岩間専十郎の三男坊。専十郎は機略に富み、農民を守るためには領主へ反抗することも厭わない人物だったが、その影響もあったのだろうか、三男坊は武士に憧れて学問と武術を愛し、百姓仕事を嫌い、僧の弟子として同伴させられることになるとこれに反発、夜逃げして中山道を江戸に向かったものの取り押さえられてしまう。この事件を耳にした熊造は、武士精神が錆び付いた太平の世に珍しく侍の魂を備えた人物と見込み、農家の出でありながら田中家に迎え松の婿とした。当時では常識外れの決断だ。 庄屋の三男坊は一夜にして武士になり、時言と名乗る。当初は藩の若侍に冷たい視線を浴びていたが、代々の武士よりも武士らしくありたいと世に出たばかりの砲術を江戸で学び、戊辰戦争がはじまると砲隊長として意気軒昂に参戦した。ところが守備を任ぜられ、一戦も交えることなくそのまま武士の時代は終わってしまった。 田中時言と松の間に、三男として慶応2年(1866)に生まれたのが釟三郎だ。命名した熊造は釟三郎の生後20日あまりで逝去するが、彼の英知はやがて曽孫に受け継がれる。貧困と闘いながら学ぶ 時言は時代の変化の中、運悪く武士としての生活の糧を失い、一家10人を養うために岐阜名産の和傘の骨を削って働くも、家屋敷を切り売りするまでになってしまう。しかし、貧乏だからといって教育には手を抜かず、その方針はまさに武士道精神、貧しくとも卑しい人間には育てなかった。 釟三郎は幼い頃より闘争心に満ち、鬼ごっこも戦争ごっこも大将格。イタズラも好きで、そのため短気な時言によく叩かれた。しかし、時言は慈愛深く釟三郎を教育し、学びたい気持ちにはいつでも応えてくれた。釟三郎は小学校を卒業するも、働き手でもあった長兄が東京へ出て家計はますます厳しくなり、中学校への進学を諦めかけていた。しかし、時言は何とか月謝を工面する。ところが教科書が買えない。でも、釟三郎は進学できることに大いに喜んで父に感謝し、隣の席の友人に教科書を見せてもらい猛勉強、好成績で進級を勝ち取った。 ところがいよいよ月謝も払えないほど田中家は困窮してしまう。そこで釟三郎は齢14にして中学校を退学、貿易商館のボー平生が15歳の時の写真学校法人甲南学園所蔵資料41

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