KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年4月号
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参考資料朝日新聞本社社史編集室編『村山龍平傳』「阪神間モダニズム」展実行委員会編著『阪神間モダニズム 六甲山麓に花開いた文化 明治末期~昭和15年の軌跡』香雪美術館ホームページ茶道藪内家ホームページ ほかの買い付けに付き添ってもらうなど、茶道家の藪内節庵と交流があったが、幼い頃から茶道に親しみ、明治25年(1892)頃から本格的にお点前を愉しんでいた上野理一とは対照的に、なかなか節庵の誘いに乗らず、ようやく齢50を過ぎた明治35年(1902)頃からお茶をはじめた。節庵に師事してからは厳格に子弟の関係を守ったというのも武家の出らしい。 面白いエピソードがある。インドの詩人、タゴールは来日した際、村山に日本の茶道を体験したいと申し出て、御影の村山邸で節庵を招聘し、茶席が開かれた。その際、タゴールは茶道具を熱心に鑑賞したが、茶入れに千利休の花押があり、それを村山が「かおう」と説明したのを、通訳が「顔」と聞き違えて訳し、タゴールに伝えた。タゴールは何度も花押を繰り返し凝視し、「これはどうやったら顔に見えるのか?」と質問、通訳の間違いと分かり、みな破顔一笑したという。 藪内家の茶道は武将でもあった古田織部の影響を受け、男性的といわれる流派で、武家出身の村山の好みに合ったようだ。戦国の世では武将たちが狭い茶室で談義をしたというが、近代になると船場の粋な文化の影響もあってか、大阪では実業家が茶の湯でコミュニケーションをとるようになった。明治35年(1902)に村山は上野と藤田組の藤田傳三郎とともに茶の湯の会「十八会」を立ち上げ、住友財閥の住友吉左衛門(春翠)、白鶴の嘉納治兵衛(鶴堂)ら錚々たる18名が集った。明治41年(1908)には藪内節庵を中心に「篠園会」が立ち上がり、村山龍平(玄庵)、上野理一(有竹)、藤田傳三郎(芦庵)のほか、野村財閥を築いた2代目野村徳七(得庵)や山口財閥の4代目山口吉郎兵衛(滴翠)らも加わり、家元の竹翠や竹窓も迎えられた。彼ら数寄者たちはおのおの収集した道具を取り合わせて順番に茶会を開いたが、後に村山=香雪美術館、藤田=藤田美術館、野村=野村美術館、山口=滴水美術館と、それぞれのコレクションで美術館が建つことになる。 村山は家元の茶室、燕えんなん庵の写しを建てることを許され、昭和3年(1933)に没した際は、家元の竹窓から免許皆伝と村山紹龍の号が贈られるなど、藪内家との絆は強かった。 村山の愛した美術品や茶道具は、御影の屋敷に昭和48年(1973)開館した香雪美術館(「香雪」とは村山の号)に受け継がれ、これからもわが国の宝として大切に守られていくだろう。(文責・「月刊神戸っ子」編集部)室内の細部まで「燕庵」を忠実に再現している27

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