KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年4月号
26/51

はあまり新聞事業に積極的ではなかったが、とある事件を契機に社内一の実力者となり、やがて明治14年(1881)に木村家から朝日新聞の所有権を譲り受けた。その後は篠山出身で武家の出の上野理一とタッグを組み、日本を代表する全国紙へと飛躍させただけでなく、さまざまな事業を展開したのはご存じの通り。その活躍を書くと紙幅が足らぬので割愛する。刀剣から古美術へ 前述の通り、武家の出の村山龍平は幼き頃から刀剣を愛で眼識を養ってきたが、本格的に剣の収集をはじめたのは明治17年(1884)頃のようで、多忙な中、鑑定会にもちょくちょく顔を出したという。 明治20年代からは美術品の収集にも手を伸ばす。その頃は欧米化が進んで、西洋のものは進んでいて日本のものは遅れているという風潮があり、日本のすぐれた美術品はどんどん海外へ流出していた。村山はこのような状況を危惧し、私財を投じて国の宝である日本や東洋の美術品を守ろうとしたのだ。最初は刀剣のほか、仏画や古画の収集に熱心で、やがて茶道具へとたどり着く。かつて引取屋で多彩な商品に触れ、自然と審美眼が磨かれていたのだろうか、そのコレクションは一級品揃いだ。ちなみに、上野もまた古美術収集を愉しんだが、その入口は茶器で、光琳を好んだという。 ほぼ同時期、村山と同様の危機感を抱いていた岡倉天心と高橋健三は明治22年(1889)に美術誌『国華』を創刊した。しかし、採算度外視だったためすぐに運営は傾く。そこで高橋と知己であった村山と上野が支援、経営を引き受け、両名が没した後の昭和14年からは朝日新聞が受け継いで現在もなお発行されている。 村山は明治33年(1900)頃、当時六甲山麓の荒れ地だった御影郡家に土地を取得、屋敷を構えた。その広さ数千坪で、美術品をどれだけ集めても大丈夫というレベルを軽く超越していた。大阪の商人たちは「村山は正気を失ったのではないか」と呆れたが、これがやがて阪神間モダニズムを下支えする郊外住宅地の先駆けとなり、呆れた商人たちも後々、村山に倣いこぞって郊外に別荘や邸宅を求めることとなった。茶の湯に映る武家の魂 村山龍平は茶道家としても知られている。もともと茶道具薮内流家元の茶室「燕庵(えんなん)」を写した「玄庵(げんなん)」。重要文化財に指定されている國華 創刊号表紙26

元のページ 

page 26

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です