KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年4月号
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「田丸屋」として引取屋、村山商店は出発、洋布、服飾雑貨、生活雑貨、文具、食品、生活必需品日用品など幅広く商った。引取屋とはいわゆる輸入業だ。龍平は武器を通じ、西洋ものに精通していた強みがあったものの、商売は素人。そこで、洋物問屋で成功していた芝川又平を訪ねて教えを請うた。又平は何の縁故もないのに真正面からやって来た龍平に驚いたが、やがて素質を見込んで信頼、龍平の事業をサポートした。 龍平は22歳で村山家の家督を相続。商売は上手くいき、明治9年(1876)には醤油問屋の木村平八と共同経営で西洋雑貨を扱う玉泉舎を設立し、事業を拡大する。実現はしなかったが、石油国産化やガラス製造も画策、その慧眼には驚く。木村平八は鳴尾の出身で、守雄とは戸長仲間で親しかった人物だ。さらに、芝川又平の息子らと株主を募りその希望する物品を購入配給する機関、つまり現在の生協のような事業を企てるなど、龍平は商売の街、大阪でメキメキと頭角を現し、五代友厚が中心になって設立された商法会議所(現在の商工会議所)の議員まで務めるようになっていく。 ところが親しかった木村平八の息子、騰のぼるが突っ走って立ち上げた新聞事業に、平八親子から懇願され関わることに。かくして資本主が木村平八、社長が村山龍平、木村騰を実質的な経営者として新聞事業がスタートし、明治12年(1879)1月25日、大安吉日の日に朝日新聞の創刊と相成った。 龍平は朝鮮貿易に乗りだしたこともあり、商売が忙しく当初洋館でありながら天井には茶室に見られる網代を施している。旧村山家住宅25

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