KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年4月号
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事御用を任され、測量を学んだ。その頃はまさに幕末、攘夷ムードで海岸防衛が喫緊の課題だった。その重要な任務の主軸になったことからも、優秀な人材だったことがうかがえる。 守雄の妻にして敬忠の娘、鈴緒は、父の血を受けてか、勝ち気で長刀など武芸の心得もあった一方で、家事はすべて完璧。特に裁縫の腕は近所の人も一目置く名人だったという。 そんな二人を父母に、村山龍平は嘉永3年(1850)に伊勢田丸で誕生、幼名を直輔といった。幼少の頃はかなりのわんぱく小僧で、近所の町方の子どもが泣かされ、母が近所に謝りにいくことしばしば。寺子屋も乱暴がもとで退学。成長してますます粗暴になり、「天下の暴れ者になるだろう」と噂され、「村山の五右衛門」というあだ名までついた。 一方で決めたら一徹、祖父から体力を受け継いだのか、剣道と水泳が得意で、砲術にも熱心だった。また、幼少の頃から刀剣を愛好し、15歳の頃には銘を言い当てるようになったという。武士の時代が続けば素晴らしい侍になったかもしれない。商売人として実力発揮 ところがそうはいかず、武士の時代は終わりを告げ、明治を迎えた。すると守雄は旧藩士としての特権を辞退し、一家を挙げて大阪の京町堀へ移住、船載雑貨を商う引取屋を開き、後に西区の戸長、世話役も務めた。 龍平は思春期を過ぎた頃から暴れん坊を卒業、冷静沈着な少年へと生まれ変わり、大阪へ出てからは村山家の屋台骨に。商売人として生きる決意をする。 明治5年(1872)、商号を明治33年に村山は広大な土地を取得、その一角にある屋敷が今も残る。旧村山家住宅マントルピースには、竹林を形どった細工を施している。旧村山家住宅御影に花開いた邸宅文化を今に伝える。旧村山家住宅24
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