KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年4月号
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その少年、危険につき… 村山家はもともと武士の家柄で、代々伊勢の田丸藩藩士として久野家に仕えていた。田丸藩は小藩なれど熊野の入口にして伊勢神宮の外衛の重要地点にあり、久野家は紀州徳川家の御附家老も務め、尚武の気風が強かったという。ちなみに田丸城趾は後に龍平が払い下げを受け購入、田丸町に公園として寄贈し、現在も親しまれている。 代々村山家の当主は健康長寿な人物が多く、龍平の祖父、村山敬忠(閑斎)は腹に縄をぐるぐる巻いたのを「ふん」と気合いでぶち切ったという。しかし、腹筋には恵まれたようだが男子には恵まれず、跡継ぎに養子を迎え、後に娘(四女)の婿となる。この人物が龍平の父、守雄だ。 守雄は忠敬と逆、体力より知力の人で、国学に造形が深かった。その知性を藩主に認められ、紀州徳川家の和歌山藩邸の子弟に文学を教えただけでなく、藩学の設立に関わった。和歌山から田丸に戻された後は砲台構築や兵舎建設など軍23

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