KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年4月号
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久坂葉子は昭和6年、相楽園のすぐ西に接した一角で、川崎正蔵の孫で男爵家の川崎芳熊と加賀百万石、前田侯爵家の家系に繋がる久子との間に二女として生まれた。現在、この屋敷跡にはありえない縁で私が設計させていただいた建物がある。 昭和6年といえば世界大恐慌のさなか、川崎造船所があわや倒産という危機に見舞われた頃で、昭和8年には無給で社長になった平生釟三郎のもと、川崎芳熊は専務になり懸命に立て直しを計った。戦後、川崎芳熊は公職追放になったものの、久坂葉子が自死する前の年、昭和26年には神戸オリエンタルホテルの社長になっている。 川崎芳熊は神戸一中の卒業だが、下の弟たち、金蔵、芳虎、芳治も神戸一中出身で、共に苦しい時代を生きた。そんなさなか、家の内実を暴露したような久坂葉子の作品には頭を悩まし、さらに彼女の死も、とうてい受け入れることができなかったのではないかと推察する。 久坂葉子は父の影響もあり幼時からピアノ、絵画、俳句、演劇などを好み、一方では有島武郎の『或る女』の主人公、早月葉子に共感し、太宰治の没落華族を描いた『斜陽』を愛読した。小妖精の才能はその美貌の上に本来、もっと華麗に開花すべきだったと思うが、父の心の痛みにも目を向けて欲しかった。 オリーブの葉の表は光る濃緑色、裏は銀白色でとても美しい。初夏にはいい香りの小さい白い花がまとまって咲き、あっという間に満開、そして一気に散る。まるで久坂葉子のようだ。ちなみに湊川神社のオリーブの古木は「神戸阿オリーブ利襪園」ゆかりの樹で、樹齢約140年、わが国最古といわれている。 生田神社名誉宮司の加藤隆久さんの『神と人との出会い、わが心の自叙伝』の中の〝久坂葉子の死をめぐって〟に中西勝画伯のその日の体験が綴られているのを見て、私は大いに驚かされた。若い頃とてもハンサムだった中西画伯が、本命ではなかったにせよ、彼女のボーイフレンドの一人だったとは…。久坂 葉子(くさか ようこ)文筆家1931年、川崎造船(現・川崎重工業)創立者・川崎正蔵の孫である川崎芳熊の娘として神戸で生まれる。本名は川崎澄子。神戸山手高等女学校(現・神戸山手女子中学・高等学校)卒業。相愛女子専門学校(後の相愛女子短期大学)中退。1949年、六甲在住の作家・島尾敏雄の紹介で、雑誌『VIKING』の同人となり、富士正晴に師事。久坂葉子のペンネームを用いる。『VIKING』に発表した『落ちてゆく世界』は『ドミノのお告げ』と改題され、1950年の第二十三回(上半期)芥川賞候補となる。『幾度目かの最期』を書き上げた後、1952年の大晦日に阪急六甲駅で鉄道自殺を遂げた。写真提供/久坂葉子研究会※敬称略※『ハイカラ神戸幻視行』西秋生、『神戸阿利襪園』インターナショナルオリーブアカデミー神戸、神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫などを参考にしました。また、一部「こうべ芸文」の拙文より転載しました。17
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