KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年3月号
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住宅街へと発展していく。地域コミュニティから生まれた質の高い教育、優しい医療、相互扶助の精神富裕層が移り住んだ土地の中でも広大な部分を占めていたのが住吉村だ。明治40年(1907)ごろ、後に日本住宅株式会社の社長となる阿部元太郎が観音林・反高林一帯の1万坪あまりの山林を住吉村から借り受け本格的な宅地開発を始めたことが、「日本一の長者村」とまでいわれ全国に名を馳せる起源となった。阿部は地域コミュニティづくりにも力を注ぎ、明治45年(1912)、日本初といわれる社会コミュニティと会館「観音林倶楽部」を設立する。運営の中心的人物となったのが、住吉の歴史を語る上で欠かせない平生釟三郎だった。実業家として名を上げる一方、人材育成こそが最大の社会貢献と考えていた平生は明治43年(1910)、甲南幼稚園開設を手始めに、考えを同じくし高い教育熱を持つ田辺貞吉をはじめ観音林倶楽部メンバーの協力を得ながら甲南学園設立の礎を築いた。さらに、「悩める病人のための病院たらん」をモットーに甲南病院を設立、相互扶助の精神に賛同し、灘購買組合(現在の生活協同組合コープこうべ)結成にも協力を惜しまなかった。地域づくりを円滑に進めるための人間関係構築の場、また地域住民の親睦の場として有益、かつ華やかな22年間の活動を終えた観音林倶楽部の会館は住吉学園に譲渡され、その地は同学園活動の拠点として現在に至っている。独立独歩の道を歩んできた住吉村観音林倶楽部が中心となって住吉村では豊かな財政を活用し、幼稚園から病院まで地元の手でつくられた。その中のひとつ私立睦実践女学校から経営の全てと山林約3ヘクタールを譲り受け昭和19年(1944)に住吉学園は設立された。一大地域コミュニティとしての誇りをもち、伝統的に独立独歩を貫いてきた住吉村は、何度も議論された近隣町村との構想とは一線を画した。 戦後は村有財産の大半である338ヘクタールを移譲され30

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