KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年3月号
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完する設備やノウハウを擁し、製品のクオリティは非常に高く、「障がい者の特権無しの厳しさで健丈者の仕事よりも優れたものを」という井深大氏の理念が貫かれている。井深氏の子ども自身は、栃木県鹿沼市の社会福祉法人「希望の家」で生活し働いており、井深氏は、わが子がてきぱきと仕事をこなす姿を誇らしいと思ったそうだ。 彼の教育への情熱と障がい者支援の陰には、一人の人物の存在がうかがえる。その名は井深八重。写真を見るととても美しい人である。井深大氏の11歳年上の遠戚だ。幼くして両親が離婚、明治学院総理で牧師でもあった叔父の梶之助のもとに預けられるなど境遇も大まさる氏と似ている。その後同志社女学校で英文学を学び、卒業後は長崎で教師になったが、22歳の時に体調を崩しハンセン病を疑われ神山復生病院へ入院させられる。当時は「らい病」と差別された病気で、患者は一族の籍を抜かれてしまうこともあった。ところが後にこれが誤診と判明。しかし彼女は「ここに止まって働きたい」と、看護師の資格を取得、偏見と貧困をものともせず66年もの間献身的な看護につとめ、ローマ法王より「聖十字勲章」が、赤十字国際委員より「フローレンス・ナイチンゲール記章」が授与された。 「マザー・テレサに続く日本の天使」と評された彼女に影響を与えたのは、八重と同じくクリスチャンだったおばの井深登とよ世だ。彼女は新島八重と鶴ヶ城に籠城、傷ついた藩士たちを看護した。登世が井深八重と同志社を繋いだのかもしれない。 井深大氏もクリスチャンだった。洗礼を受けたのは恩師への敬慕と親類の勧めからだというが、その親類こそ井深八重だったのではないだろうか。少なくとも彼の教育と社会貢献への姿勢には、少なからず井深八重の影響がうかがえる。 ちなみに井深八重は『わたしが・棄てた・女』という小説のヒロインのモデルでもあるが、その作者は神戸にもゆかりのある作家・遠藤周作である。井深 八重(いぶか やえ)看護婦1897年、会津藩家老西郷頼母の一族の娘として台湾で誕生。幼くして両親が離婚し、父方の叔父で元明治学院総理・井深梶之助の家にて幼少期を過ごす。1918年に同志社女子学校専門学部英文科を卒業後、長崎県立高等女学校の英語教師として長崎に赴任。その後、1919年に身体に異変が生じ、ハンセン病と疑われて私立カトリックらい病(ハンセン病)院神山復生病院へ入院。1922年に誤診とわかるが病院に留まり、看護婦としてハンセン病患者の看護と救済に一生を捧げる生涯を送った。1959年、教皇ヨハネ23世より、聖十字勲章「プロ・エクレジア・エト・ポンティフィチェ」を受章。1961年、国際赤十字より、フローレンス・ナイチンゲール記章を受章。1975年、同志社大学より名誉博士号を授与。1978年、昭和52年度朝日社会福祉賞を受賞写真提供/一般財団法人 神山復生会神山復生病院 復生記念館※敬称略※日経Bizアカデミー「私の履歴書」、「会津への夢街道」ホームページ、同志社女子大ホームページ、ソニー太陽ホームページなどを参考にしました。17

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