KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年1月号
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 そして昭和12年(1937)、布引に神戸ドレスメーカー女学院を設立。生徒わずか30名からスタートしたが、神戸大水害禍や空襲での校舎焼失を乗り越え、現在も神戸ファッション専門学校として、新時代に合わせた教育を実現、「即戦力」を育成中だ。これまでに輩出した優秀な人材は数知れない。 戦後は教鞭を執るかたわらで、婦人雑誌や新聞の依頼を受け新作の服にパターンを添えた記事を手がける。私の母もこれをもとに服をつくっていたに違いなく、洋裁の技術を広めることで生活に欠かせない「衣」の復興に貢献した。そして昭和23年(1948)、大丸神戸店の顧問デザイナーに招聘される。その頃の大丸は進駐軍に店の半分を接収され売る物資も乏しかったが、戦争で抑えつけられていた「装う喜び」が湧き上がりつつあった。そんな時代の風を受け手腕を発揮、以降、44年にわたってファッションの第一線を担った。 教育者とデザイナーの二足のわらじで多忙な中、日大芸術学部美術科へ学生として通ったり、時にパリでオートクチュールの技術を吸収したり、アメリカで近代デザインを学んだりと、常に自己研鑽に努めた姿勢は尊敬に値する。また、昭和48年(1973)からスタートした神戸の「ファッション都市」も牽引。まさに神戸のアパレルファッションの育ての親として活躍し、その功績から勲三等瑞宝章を受章している。 私の友人で、同校の教員として20年近くともに過ごした田仲留美子さんは「福冨先生はいつもおしゃれで、日に2度3度とコーディネートしていたんです。やさしい方でお母さんみたいなところもありました。出会いを大切にし、人と人を繋ぐことにも熱心でしたね。常に美しいところに向かっていく姿勢も印象的でした」と振り返る。戦後の神戸にファッションの域を打ち立てた女性の鏡として、後世にその名は残るだろう。福冨 芳美(ふくとみ よしみ)服飾デザイナー1914年、岡山県生まれ。1932年に兵庫県立第一神戸高等女学校卒業後、杉野学園ドレスメーカー女学院研究科で学ぶ。1937年、神戸で最初の洋裁学校・神戸ドレスメーカー女学院(現・神戸ファッション専門学校)を設立、学院長となる。1950年に上京し日本大学文学部史学科に入学、準学校法人福冨芳美学園を設立し理事長に就任。1955年、日本大学文学部史学科卒、日本大学芸術学部美術学科2年編入。1956年より準学校法人福冨芳美学園理事長を退任し理事に就任。服飾研究のためアメリカ・ヨーロッパ諸国へ留学。1961年、日本大学芸術学部美術科卒。以降、欧米各国のデザイン関係の学校やファッション産業を視察。半世紀近くにわたって神戸の服飾文化振興に寄与し続け、1975年に藍綬褒章、1982年に神戸市文化賞、1985年に兵庫県文化賞を受賞。1992年に心不全のため77歳で逝去し、正五位に叙せられた写真提供/神戸ファッション専門学校※敬称略※福冨芳美『わがこころの自叙伝』、神戸ファッション専門学校ホームページなどを参考にしました。15

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