KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年10月号
49/51

参考文献『大社村誌』、『西宮市史』、「阪神間モダニズム」展実行委員会編『阪神間モダニズム』、西宮商工会議所『町名の話』、夙川自治会『夙川地区100年のあゆみ』、西宮市教育委員会『西宮の歴史』、朝日新聞デジタル2016年5月14日号ほか建てで貸室60室を擁し、ロビーや食堂、談話室を完備。当時としては珍しい水洗トイレや全館スチーム暖房も整備され、高級官僚や軍人、大企業社員や文化人などが投宿し、作家の川口松太郎、画家の東郷青児らも愛顧したという。阪神間のマダムたちはここで舞踊や料理などを学び、社交ダンスに興じるなど富裕層のサロン的な役割も果たしていた。また、パインクレストの周辺には昭和4年(1929)にナショナル・シティ銀行大阪支店の住宅群が建てられるなど、洋館が多く外国人が多かったため当時は「外人村」とよばれていたそうだ。 このように、華やかなりし阪神間モダニズムのひとつの核でもあったのだ。めでたい町名の由来 大神中央土地による宅地の範囲は現在の松園町のほか、羽衣町、相生町、霞町、雲井町、殿山町の6町の範囲にあたるが、開発当初はこれらの町名はなく、通りに名前がつけられていたようだ。今の松園町あたりでは、香枦通が東西を斜めに走り、現在の踏切の道は錦筋、その1本西が東雲筋、さらに西に弥生筋の3本が南北を通っていた。 現在の6町は昭和13年(1938)にそれぞれ町名がつけられたが、それらは大神中央土地の重役会でめでたい名前を選んで命名されたという。 「松園」はまさに、この一帯に松が多く自生したことにちなんでいるようで、「相生」はそこからの連想、相生の松からその名が選ばれたとか。松の枝には天女の衣で「羽衣」、天女が舞い上がるのが「雲井」、雲井は皇居の意味でもあり、天皇がそこにおわすならば、摂政や関白の屋敷は殿といい、その殿がある丘は「殿山」、「霞」は雲井の縁語であり、上皇の御所は霞の洞という。 謡曲にちなんで名付けられたという説もあるが、もしかしたら大神中央土地の幹部に謡曲好きがいたのかもしれない。ともあれ、古典の深い教養に根ざした地名は、風格すら感じさせ、土地の価値を間違いなく高めている。 やがて戦争の時代になり、戦後は一部住宅やパインクレストが占領軍に接収された。 高度経済成長期には夙川駅周辺の再開発と区画整理がおこなわれ、阪神・淡路大震災後には山手幹線が開通、さらにJRさくら夙川駅ができ、より便利にアップデートした。 その一方で自治会活動も盛んで、豊かなコミュニティがあり、静寂の環境も住民たちの手でしっかりと守られている。 そして今、松園町とその周辺は、阪神間屈指の住宅地として成熟し、時代に左右されない普遍的な価値を誇っている。太古からの歴史、豊かな緑、遊園地に由来する明媚さ、粋な富裕層や文化人たちが育んだ生活文化、そして高級住宅地としての矜持と風情は今なおこの地の宝として継承され、それは未来永劫輝いていくのかもしれない。49

元のページ 

page 49

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です