KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年10月号
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で、所伝によれば垂仁天皇の皇后、日ひばすひめのみこと葉酢媛命の薨去の際に、野のみのすくね見宿禰という人物がそれまでの殉死の習慣を改め埴輪を用いるよう奏請して認められたと伝わる。また、「しゅく」はもともと野見宿禰の「宿」からきているともいわれている。ゆえに、夙川の「夙」の由来は野見宿禰の「宿」という推理もあながち的を外していないかもしれない。また、「夙」が「守具」となり「森具」となったという説もあり、地名ひとつにも歴史が刻まれていて興味深い。 野見宿禰は埴輪を考案したことから土はじ師の姓を与えられ、子孫は天皇の葬儀を司ることになったという。また、野見は「野を見て」墳墓の地を見定める、あるいは石室を造る際の「鑿のみ」にも通じるとされ、伝説レベルではあるが野見宿禰は古墳と深いゆかりがありそうだ。この一帯に古墳が多いことも何らかの関係があるのだろうか。ちなみに野見宿禰は相撲の始祖ともされている。 なお、この村は、江戸時代当初は尼崎藩領だったが、それがひとつのきっかけとなる。大阪で砂糖を商っていた香野蔵治は現在の夙川一帯に広大な土地を有していた(一説には借り受けていたとも)が、海を望み山も近く、地形に変化があり景観も美しいことから阪神間でも指折りの景勝地に違いないと土地のポテンシャルに着目し、櫨山慶次郎(香野の会社の支配人格で両名は兄弟という説も)とタッグを組んでさらに周辺の土地を取得するとともに、草地や松林を切り拓いて道路や橋を設けるなどして整備。そこにさまざまなレジャー施設を設け、大遊園地、香櫨園を明治40年(1907)に開園させた。そ明治40年に開園した遊園地「香櫨園」にあった奏楽堂。大正2年の「香櫨園」閉園後、翌年、香櫨園浜に移設された1769年に周囲の村や町とともに幕府の直轄領となった。当時、勘定奉行と長崎奉行を兼務していた石谷淡路守清昌が江戸と長崎を行き来する際にこの一帯が繁栄しているのを見て、天領として幕府の収入を増やそうとして建議、認められたという経緯だ。それもそのはず、その頃の阪神間は田畑が広がって米のほか菜種や綿など商品作物も栽培、海岸部では漁業のほか酒造が盛んで、兵庫から西宮にかけての村は全国的にも豊かだったのだ。この頃は享保の改革と寛政の改革の間にあたり、財政が逼迫していたであろう幕府が目をつけたという訳である。華やかなりし香櫨園 緑豊かな田園地帯だったこの一帯が開発されたその第一歩は、リゾートとしてであった。 すでに明治7年(1874)に官設鉄道(現在のJR)がここを通るもただ汽車が行き交うだけだったが、明治38年(1905)、阪神が開通し、44

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