KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年10月号
41/51

骸を自分達の巣までせっせと運んでいくのを、無事にその作業が完了するまで眺めていたり、よその家の垣根のバラの蕾を一つのこさず数えてみたり、ついでに害虫も退治してやり、くたびれたら樹陰で昼寝もし、川原でめだかをおどかし、兎に角、目につくものには何でも交き合ったのだから一時間でも二時間でも経つ筈である。 学校では 「宿題やっていないものは?又、遠藤か、立っとれ」 「後で騒いでいるのは誰か?又、遠藤か、立っとれ」 兎に角、「又、遠藤か、立っとれ」と拳骨の雨で終始した。母に懇々と諭されて授業中、一生懸命、黒板をみつめ先生の言われる事を聴くのだが、どんなに努力してもさっぱりわからない。たまりかねてあたりをきょろきょろしはじめる。友だちは皆、温和しく先生の話を聴いている。前に座っている奴の首すじを尖った鉛筆でチュッチュツと突いてみる。「キャアー」驚いた友だちは、突っ拍子もない声をあげる。「ハックショイ」私はあわてて誤魔化すため嚔くしゃみをする、が先生の眼は鋭くこちらをにらんでいる。 「こらぁ、又、遠藤か、お前はどうして……」 放課後、皆帰ってしまった教室で一人残された私は、さすがに悲しくなって「なんで僕はせいでもええことばかりして叱られるんやろか」と考え込んでしまった。 此頃の心理は、今考えてみてもわからない。要するに泥だらけになってほっつき歩いているワンちゃんと何らかわりがなかったのである。二つ違いの兄に今でもよく云われる話だが、雨降りの日に傘をさして如露で庭の草花に水をかけていた子供なのである。兄貴は秀才で、中学四年から一高、東大、高文というその頃の秀才コースを進んでいった男なのだから、私の馬鹿さ加減は余計めだったのだった。だが兄は私のことを心配してよくかばってくれた。そして母は唯一の保護者だった。バイオリニストを志ざしていた母は、結婚し子供ができ、二人の男の子が取っ組み合いの喧嘩をしている傍でも毎日欠かさず何時間かはバイオリンを弾いていた。何と気の強い母親なのか私がびっくりしたことがある。例によって教師になぐられ、その時は相当ひどいわるさをやったのか、前歯をへし折られて家へ帰った。それを見て母は顔色を変えて学校へどなりこんで行った。「息子を教育してもらうために学校へやっているのであって傷をつけてもらうためではない」と。「謝れ」「謝る必要ない」教師も相当頑張ったらしいが、兎に角、謝る迄はここを動きませんと座りこんだおばはんに根負けしたのか、結局、母は自分の言い分を通して引きあげてきた。 「お前は人より本を沢山読んでいるから偉い偉い」と劣等感のかたまりみたいな私をほめ、おだてて例えそれが漫画であろうと講談本であろうと本だけは欲しいだけ買い与えてくれた。 その母も今はいない。私にとって母の想い出はやはりこの仁川の月見カ丘の頃。元気な頼もしい母親がなつかしい。1965年『神戸っ子』6月号掲載41

元のページ 

page 41

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です