KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年9月号
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年に永原武信という人物が八幡大神を祀ったという説、1310年代に花園天皇の勅命で宇佐八幡を分祀したという説があるが、いずれにせよ遠い昔からこの地を見守ってきたことに違いはない。 平氏が滅び源氏が鎌倉幕府を成立させ、武士の支配する時代となったが、14世紀になると鎌倉幕府内に対立が生まれ、それに乗じて後醍醐天皇が朝廷の政権奪還を目論んだ。しかし2度にわたる倒幕計画は失敗、隠岐に流された。そんな中、後醍醐天皇を支持する反幕府の勢力が出現する。播磨の赤松円心もその一団として1333年に挙兵、摩耶山を拠点として京へ向かって山陽道を攻め上がろうとする。一方の幕府方も六波羅探題軍がこの動きに対抗、八幡神社の杜に押し寄せるなど篠原~八幡は主戦場となった。赤松軍は足軽を麓に派遣して遠矢を射させ、敵方を左右が狭くなった七曲がり(現在の六甲台あたり)までおびき寄せ、そこに反対側の尾根にいた部隊が一気に攻め込んで攻撃。六波羅探題軍は4千もの兵を失ったという。ともあれ、赤松円心はこの地を重要視し、地形を巧みに生かして大勝利を収めた。ちなみに現在、赤松町という地名があるが、これは明治時代に六甲台で発見された石垣を円心の居城、赤松城と誤認したことからきているとか。 ところで、「六甲」という名はどうやら近世後期以降のようだ。江戸時代後期の伊能図でも六甲山は「武庫山」と記されている。「武庫」と「六甲」の関係とはいかに?万葉集の時代、難波津に出た大和の人は、大阪湾の対岸に望む一帯を「ムコ」とよび、「六児」「武庫」「務古」「牟古」などと表記した。いずれも〝向こう〟という意味と推察され、後に「ムコ」に「六甲」の字があてられて「ろっこう」と読まれるようになったようだ。「神功皇后が六つの甲を埋めたから六甲」という伝説もあるが、これは後の時代に語られたものだと思われる。(次号へつづく)福原遷都の頃には、寺運が盛んだったと伝わる古くから六甲山系から流れる川が、人々の暮らしを支えてきた篠原北町にある古刹・祥龍寺49

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