KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年9月号
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なしていたことは想像に難くない。ちなみに伯母野山遺跡からは漁に関する道具も出土しており、豊かな食生活が営まれていたようだ。太古からグルメの街だったのかもしれない。 やがてクニとクニとが統合するなどより大きな富や権力を持つ支配層が出現、3世紀半ばから古墳時代へと移っていく。六甲エリアにもかつて多く古墳があったと思われるが、長い時間の中でその多くが消滅している。篠原南町の鬼塚は、墳丘こそ失われども古墳時代後期に築かれた長さ3m、幅2mの横穴式石室が残り、副葬品とみられる鉄器や勾玉が発見された。江戸時代の文書には「かつて鬼が住んでいた」と紹介されているが、それだけ近寄りがたい雰囲気があったということなのだろうか。 中世は戦乱の舞台に やがて大和朝廷が支配する世になり、律令体制の中に組み込まれ、一帯は莵原郡天城郷となった。中世を迎え律令体制が崩壊すると荘園の支配下となり、都賀野荘に属した。都賀野荘は藤原摂関家と縁がある荘園だったようだ。 都賀野荘で代々代官を務めた若林家には、貴重な文書『天城文書』が所蔵され受け継がれてきた。その古い文書によると、高羽、八幡、新在家、ミトロ(味泥)など現在の灘区の町名のゆかりとなった村々がすでに15世紀に成立していたことがわかる。若林家は摂関時代に奈良から移り住んだとも、それ以前の土豪だったとも言い伝えられていてルーツは定かではない。 平安時代末期になると、平清盛が兵庫に拠点を置いた。篠原北町にある祥龍寺は649年頃に開基された古刹だが、清盛の福原遷都の頃に寺運が盛んだったという記録が釣鐘の銘に記されていたそうだ。ちなみにこの釣鐘は1712年造だったが、戦時中の金属供出により現存しない。また、現在の阪急六甲駅南隣にある六甲八幡神社は、一説では清盛の福原遷都の際に男山八幡を勧進したとされている。ほかにも1026阪急「六甲」駅の南隣にある六甲八幡神社鎌倉幕府と反幕軍との主戦場にもなったと伝わる48
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