KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年9月号
47/51

うやら祭礼や呪術の場で使われていたようだが、篠原遺跡がその分布の最西端とされている。篠原遺跡では弥生前期・中期の遺跡も見つかっている。また、篠原の山側、弥生時代遺跡である伯母野山遺跡からは穀物を収穫する磨製石包丁や石鎌、穀物を蒸す甑などが見つかっていることからも、この頃になるとこの地へも稲作が伝播し、農耕がおこっていたことがうかがえる。農耕は共同作業を要し、そのため権力者が支配するという社会構造=クニを生んだが、その統治に重要だったのが儀礼だ。農耕儀礼では青銅の銅鐸や銅戈が用いられ、権力の象徴として崇められたが、六甲川から鶴甲の尾根を挟んで一筋東の谷の上流にある桜ヶ丘では、昭和39年(1964)に銅鐸14個、銅戈7本がまとまって出土(これらの出土品は現在国宝に指定されている)し、考古学のビッグニュースとなった。なぜこのようにまとめて埋まっていたかについては諸説あるが、いずれにせよこの一帯がいわゆるクニの体を「武庫連山海陸古覧」(部分/明治時代)。六甲山、篠原、原田、高羽、大石などの地名が記されている。神戸市立中央図書館蔵47

元のページ 

page 47

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です