KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年9月号
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割合で発生しているんです。六甲山は花崗岩でできています。花崗岩は風化すると砂質土(マサ土)になり、雨が降ると崩壊しやすくなります。それらは川に流れ出て海へ出ますから、だんだん砂浜は埋め立てられていき、六甲付近でいうと昔は岩屋の敏馬(みぬめ)神社の前あたりが海岸線だったようです。つまり六甲山は崩れてどんどん平地に近づいていっていることになるのですが、プレートの隆起運動が続いているため、六甲山は931メートルという高さを保っています。 そういうわけで六甲山は崩れやすい地質でできていて、いつまた土砂災害が起きるかわからないのです。最近の大雨の降り方を見るとさらに恐ろしい。ですから行政も、私たち神戸市民も、ハザードマップをはじめそれらの危険性を把握し、自覚しておかなければなりません。 けれども私たちは六甲山から非常な恵みを受けています。六甲山を里山ならぬ「都市山」と名付けられたのは、兵庫県立大学の服部保先生です。自然環境に大切な里山は、たいてい人里離れた場所にありますが、神戸の六甲山は都市部にある「都市山」ということです。日本という国は、その国土面積に対して森林が7割近くを占めています。これは世界で5番目の比率で、いわば日本は「森林王国」といえます。その中で、神戸ほど森林の多い大都市はほかになく、神戸はその「森林王国」を代表する都市です。 よく知られている通り、六甲山は昔は“はげ山”でした。そもそも、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、六甲山の御影石を城郭基礎用の石材として献上させる見返りに、木を伐採する許可が与えられました。材木や松根が燃料として乱伐され、火事の頻発による荒廃なども進み、明治中頃には完全な“はげ山”となってしまいました。そこで1903(明治36)年から植林活動が始まりましたが、その植林指導に当たったのは、明治神宮の森を作った本多静六です。以来、植林事業や治山事業が行われ、現在のような緑豊かな六甲山に戻りました。森林の明治36当時の六甲山ははげ山であった。写真集『神戸100年』より明治37年、植林から1年後の六甲山大正2年、植林後10年目の六甲山42

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