KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年8月号
21/55

に持ち込み戦火を逃れた蓮華文軒丸瓦を、調査のために受けとった。 そして昭和29年(1954)から本格的な発掘調査を開始、前年の予備調査で幸先良く鴟しび尾(屋根の両端につけられる飾り)の一部が発見されて期待が集まったが、思うように遺構が現れず「難破した宮」と揶揄され、資金集めにも苦労するなど困難をきわめた。しかし山根博士は諦めず調査を続け、ついに昭和36年(1961)の第13次調査で大極殿跡を探し当て、世紀の大発見となった。 歴史ロマンに満ちた難波宮だが、神戸を拠点としていた置塩先生のほかにも神戸とは浅からぬ縁がある。山根博士は大正9年(1920)から大正13年(1924)までの間、神戸一中で教鞭を執っていた。また、大阪市大で山根博士の同僚となり、発掘作業にも深く関わっただけでなく、難波宮跡の保存活動にも尽力した歴史学者の直木孝次郎教授も神戸一中の卒業生だ。私の友人で神戸高校の1学年下の黒沢陽一さんも大阪市大在学中に発掘調査を手伝ったという。当時を振り返り「学園紛争で講義がなく、先輩から誘われて参加しました。大きな麦わら帽子をかぶり首にタオルを巻き、竹べらで発掘するのですが、磁器の破片が出てくると嬉しかったですね」と語っている。私の知人で大阪の文化活動グループ「熟塾」代表の原田彰子さんも山根徳太郎博士の顕彰活動に熱心だ。 置塩先生は70歳を過ぎたら考古学を学んで発掘した瓦に光を当てる心づもりだったという。その想いを受けた山根博士は、大極殿の発見時にこう言ったそうだ。「われ、幻の大極殿を見たり」と。二人の絆がなかったら、難波宮は今も幻のまま地下に眠っていたかもしれない。※兵庫県立神戸高等学校鵬友会発行の『鵬友』、大阪歴史博物館『大阪遺産 難波宮─歴史を読み解くキーワード』、Convention Newsホームページなどを参考にしました。置塩 章(おしお あきら)建築家明治14年、静岡県生まれ。明治43年に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業、陸軍技師として陸軍省に入る。大阪砲兵工廠の勤務を経て、大正9年に兵庫県庁に移り、兵庫県徽章のデザインを行った他、県会議事堂、警察署、学校など多くの施設の設計を指導。昭和3年に兵庫県庁を退職後、置塩章建築事務所を開設。神戸高等工業学校(現・神戸大学建築学科)の講師も務めた。兵庫県建築士会の初代会長、兵庫県建築会会長、日本建築士連合会理事などを歴任し、昭和33年に藍綬褒章を受章山根 徳太郎(やまね とくたろう)日本史学者・考古学者明治22年、大阪市生まれ。大阪府立北野中学校、東京高等師範学校 地理歴史部卒業。大阪市民博物館歴史担当、神戸一中教師などを経て京都帝国大学文学部史学科卒業。昭和3年、大阪商科大学(現・大阪市立大学)予科教授に着任。第二次世界大戦後の昭和24年、新制大阪市立大学法文学部(現・文学部)教授となる。定年退官後は難波宮発掘に力を注ぎ、1961年(昭和36年)に難波宮の大極殿跡を発見。「われ、幻の大極殿を見たり」という名言を残す置塩章(左)と山根徳太郎(右)写真/大阪歴史博物館所蔵資料21

元のページ 

page 21

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です