KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年7月号
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 明治7年(1874)、郡家の南端に官営鉄道(現在のJR東海道線)が通るようになり、東隣の住吉村に住吉駅が設置された。鉄道はその後しばらく経ってから阪神間が郊外住宅地として発展するその牽引役になる。 明治33年(1900)頃、朝日新聞の創設者の一人である村山龍平が郡家に数千坪の土地を取得したことを契機に、その後、洋館や和館が建てられ、自然豊かな環境での郊外生活が営まれた。それが嚆矢となり、明治38年(1905)には阪神電車が開業しより便利になったことも後押しして、この一帯は富裕層の郊外住宅地になっていく。さらに大正9年(1920)に阪神急行電鉄(現在の阪急)が開業して御影駅が設置されるとその動きは加速する。明治末期には住友家の総理事の鈴木馬左也と岩井商店(後の日商岩井・現在の双日)の創業者の岩井勝次郎も郡家に土地を求めたが、いずれもその規模は千坪を下らない広大なもので、豪壮な建築が建てられた。 そして大正10年(1921)、西村伊作により郡家に西村建築事務所が開設され、モダンなデザインの住宅のほか、教会や教育施設などの建設にも関わるとともに、祝祭空間的な仕掛けづくりにも尽力した。西村は絵画、陶芸、生活改善、建築、教育など幅広い領域に造詣が深く、「文化生活」運動を推し進めたインテリで、与謝野鉄幹・晶子夫妻らとともに文化学院を創設した人物でもある。 工業の発展で公害が著しかった大阪から、空青く緑豊か、水清らかで温暖な阪神間の郊外住宅街へと富裕層が移り、ここで大阪船場の粋な文化と国際貿易港として世界に名を轟かせていた神戸のハイカラ文化が融合。東洋のマンチェスターとよばれた大阪と、東洋のウォール街とよばれた栄町を擁する神戸という経済的なバックボーンもあり、その間にある阪神間の中でも郡家とその周辺は「超」のつく富豪たちが豪邸を構え、豊饒なモダニズム文化の大きなコアとなった。ここにひとつの理想郷が実現したといっても過言ではないだろう。戦争と震災を乗り越えて しかし、戦争の足音が忍び寄り、その栄華も長くは続かなかった。昭和20年(1945)には空襲に遭い、郡家の南半分が甚大な被害を受け、幸せな生活の拠点だった郊外住宅も多く消失した。御影町おける昭和21年(1946)の人口は約1万人で、昭和15年(1940)の半分以下にまで落ち込んだという。朝日新聞創業者の一人、村山龍平住友家の敷瓦が今も残る44

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