KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年7月号
43/47

園の単位で農民が結束して郷村を築き、郡家は郡家荘に属した。 やがて豊臣秀吉が天下を統一すると郡家村は豊臣家の直轄地となるが、徳川幕府が成立し大坂の陣で豊臣家が滅ぼされてからは幕府領を経て元和3年(1617)より幕末まで尼崎藩の支配下におさまった。天下太平の時代ではのどかな農村だったようで、稲作のほかにも綿、豆、野菜、ごま、たばこなどさまざまな農作物を生産していた。天明8年(1788)の記録によれば33世帯140名が暮らし、牛が14頭飼われ水車が2つあったという。阪神間モダニズムの先駆けに 時代は明治維新を迎えても、この地には江戸時代と変わらず田畑が広がっていたようだが、廃藩置県により郡家村は兵庫県に属すようになり、さらに明治22年(1889)には御影・石屋・東明の各村と合併して御影町の一部となった。平野忠勝は、正平年間(1346)に現在の深田池に平野城(御影村城)を構えた。足利尊氏とその弟との争いで起きた観応の戦乱(1351)に巻き込まれて敗れた後、群家村(御影町群家)に退いて農業に従事したと伝わる43

元のページ 

page 43

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です