KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年7月号
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口は約1万6千人ほどだったとみられている。その頃の日本の人口は500万人くらいと推測されているので、その割合を現在に置き換えると、莵原郡は人口30~40万人くらいのスケール感になるだろう。つまり郡家は、結構な規模の地域のキャピタルだったのだ。 そんな郡家の鎮守、弓ゆづるは弦羽神社は、嘉祥2年(849)に創建され、熊野権現を祀っている。現在も安産祈願、厄除開運、戦勝祈願、交通安全、恋愛成就などにご利益があると崇敬を集めているが、昨今はフィギュアスケート界のプリンス、羽生結弦選手もその名にちなんでお詣りし、彼のファンたちに「聖地」として崇められている。戦略上の要地でもあった 律令体制が崩壊した後、この一帯は荘園領となり、有力な社寺などに帰属するようになる。一方で前述の通り交通が良く、軍事的に重要な場所であったため、中世には時に戦に巻き込まれ、城郭も築かれた。赤松円心の家臣、平野忠勝の居城だった平野城(御影村城)は南北朝時代、現在の阪急御影駅の北西にあったと推測され、郡家の西に城ノ前という地名がバス停などに残っており、御影駅の北側には「神戸のヒストリアン」こと田辺眞人先生による解説が刻まれた城跡の石碑がある。この平野忠勝の菩提を弔うために、文安年間(1444~1449)に創建された夢境庵が忠勝の孫により永正2年(1505)、平野山忠勝寺と改められた。これが現在の御影郡家2丁目にある平等山中勝寺で、今も境内に平野家の墓所がある。 戦国時代になるとかつての荘御影郡家の鎮守となっている弓弦羽神社延輝を祀った水神宮。平野延輝は、文政12年(1829)に私費を投じ住吉川から灌漑用水を引いた阪急「御影」駅の北側に残る御影村城跡の碑御影郡家にある中勝寺。平野忠勝の菩提寺でもある42

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