KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年7月号
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ようだ。また、現在の東灘区から灘区にかけてのエリアで銅鐸や銅戈が発見されており、金属器も使用していたとも考えられる。 農耕はやがて権力者が支配するという社会構造に結びついたが、この一帯も同じような動きがあったようだ。周辺には乙女塚に代表される古墳も散見される。郡家遺跡で見つかった古墳時代の竪穴式住居跡にはかまどの煙道の構造から朝鮮半島のオンドル(煙を利用した床暖房)との関連も指摘され、渡来人や大陸の文化との深い関わりが見え隠れしてロマンを感じる。同時期の遺物では鉄器、勾玉なども出土し、水田や祭祀の遺構もうかがえることから、稲作を基本とした生活が営まれていたと想像できるだろう。「郡家」の名の由来 やがてこの地を支配していた権力者が大和政権に組み込まれ、701年の大宝律令により律令体制が整えられると、この一帯は摂津国莵うはら原郡となった。「郡家」という地名は、その莵原郡の役所、「郡ぐんが衙」が転じたものという説が有力だ。つまり、郡家は莵原郡の中心だったということになる。実際に近年の発掘調査では奈良時代を中心にした大規模な建物の跡が見つかり、これらの遺跡は郡衙そのものか郡衙に関係があると考えられている。 莵原郡とは兔原郡とも書き、だいたい現在の芦屋市から神戸市中央区にかけての範囲で、東は武庫郡、西は八やたべ部郡、北は六甲山で有馬郡に接していた。確かにうさぎが多くいそうな場所だったかもしれないが、その地名の由来はうさぎではなく、一説によれば南に広がる「海原」が転じて「莵原」になったという。莵原という地名は万葉集や伊勢物語にも登場、文学の舞台にもなっている。中でも莵うないおとめ原処女の悲恋の伝説は平安時代の『大和物語』や室町時代の謡曲『求塚』、さらには森鴎外や菊池寛の作品のモチーフとしても知られている。莵原処女は絶世の美女だったそうだが、古代にも「御影のお嬢様」がいたということだろうか。 莵原郡は大阪湾を介して和泉や紀伊と接し、都と太宰府を結ぶ山陽道(後の西国街道)が通過する交通の要衝でもある重要な地で、平安時代末期の人住吉村は六甲山から流れる急流を利用した水車の一大産地であった41

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