KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年7月号
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な邸宅のための土地を取得します。 それ以降この地域には、日本で有数の富豪たちといえる紡績関係会社をはじめとする有力商社のオーナー、社長、重役たちの私邸や別邸、関西系の財閥、製薬会社、不動産業を営む船場の富商たちの邸宅が構えられていきました。 彼らの邸宅は、建物自体もそれぞれに風格あるものが造られました。それほど規模が大きなものでなくても、著名な建築家たちによる住宅も多数存在したのは、住む者たちのステイタスから来るものでもあります。伝統的な和風建築なら腕の良い棟梁を呼べばできますが、洋館となると建築家に設計を依頼しなければなりません。当時の建築家、たとえば野口孫市はイギリス留学の経験があり、先ほど言いましたロンドンの郊外住宅地のデザインを吸収していたと考えられます。野口が設計した田辺貞吉邸はハーフティンバーを用いた西洋館であり、これはもっとも先進的な住宅だったのでしょう。御影に最初に土地を求めた村山龍平はまず西洋館を建てましたが、その設計をしたのは東大建築学科を卒業した河合幾次でした。村山はその後に玄関棟、書院棟、茶室棟からなる和館を建てています。村山邸は現在は香雪美術館に隣接していて非公開ですが、深山幽谷を思わせる緑の中にあって、今もかつての面影をとどめています。 現在も残る邸宅には、渡辺節の設計による乾汽船社長の乾豊彦邸があります。ほかにもこの地域にはW・M・ヴォーリズや安井武雄、松室重光、村野藤吾、西村伊作らの設計による邸宅が建ち並んでいました。 とくに、西村伊作は大正8年(1919)、『楽しき住家』の出版や文化学院を創設しました。自身も大正10年(1921)、御影に西村建築事務所を開設することになりました。戦災や震災、時代の移り変わりによってなくなってしまった建物も多く残念ですが、御影・住吉の雰囲気は、現在も当時と変わらないゆったりしたものです。 御影・住吉は六甲山麓の緑豊かな恵まれた環境にありました。山麓から湧きだす水は良好な水質で、灘を日本一の酒どころとした要因のひとつであるおいしい水「宮水」として用いられています。気候は温暖、緑も豊富で眺望にも恵まれた自然環境は非常に親しみやすい土地だといえます。 一方で、この地に移り住んだ関西の実業家たちは、私立の幼稚園や小学校の開設を提案し、のちの甲南学園へと発展します。田辺貞吉、野口孫市、阿部元太郎らは「観音林倶楽部」を設立住吉・御影に暮らす住人たちの社交場となった「観音林倶楽部」37

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