KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年7月号
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郊外居住のすすめとイギリスの「田園都市」―なぜ神戸御影をはじめとする阪神間が住みやすい場所として注目され、住宅地として発展したのでしょうか。 それにはいくつかの理由があり、まず当時の時代背景があります。明治時代、欧米先進国からの影響によるわが国の産業革命によって、商業都市である大阪、新しく開港した神戸という二大都市は大きな発展をとげました。これは東の東京、横浜と並ぶ模範的な発展のしかたであり、とくに近世より国内最大の商業都市であった大阪は、紡績業を中心に工業地域としての発展もあわせもちました。その結果、大阪は人口が増大し、居住地の不足という都市問題を引き起こします。人々の住む場所は、市内の交通が発達する以前は都心を取り囲む港区、西成区、上町台地などの地域でしたが、明治21年(1888)に阪堺鉄道が開通し天下茶屋、北畠、帝塚山方面の住宅地開発が進められました。これは東京では麻布や世田谷などの住宅地が誕生したことに似ますが、大阪の人口増加はそれを超えていて、飽和状態となっていったのです。 結果、明治30年代の中頃から、大阪の富商たちは居住環境の悪さから、郊外に居住することを意識しはじめたと考えられます。 あわせて、阪神間が住宅地として発展したのは、交通機関の発展という要因も挙げられます。 官営鉄道は明治7年(1874)に大阪―神戸間を結んでいましたが、次いで私鉄である阪神電気鉄道が明治38年(1905)、大阪出入橋―神戸三宮間を結んで開業しました。これは阪神間の海岸寄りの町村をつなぎます。そして明治43年(1910)に開業した箕面有馬電気軌道(のちの阪急電鉄)が、大正9年(1920)に大阪梅田―神戸上筒井間の山麓を結ぶ線を開設。ここに、海沿いを走る阪神電車、中間帯を結ぶ官営鉄道(現在のJR)、山麓を走る阪急電鉄という、現在もある阪神間の主要幹線が成立したのです。 阪神、阪急のような私鉄にとって、沿線に住む人を増やハムステッド・ヒース(ロンドン)の丘にある郊外住宅地。郊外田園都市として評価が高い。写真撮影/坂本勝比古田園都市レッチワース。道路の両側に並木が植えられたグリーンベルトがある。写真撮影/坂本勝比古34

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