KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年4月号
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1910年頃、北野町に住む外国人の挙式を撮影した一枚後列の白い洋服の女性は、明治末年に宣教師として来神し、神戸女学院で英語を教えた。この方の親族から譲り受けた一枚野村の南の端、今の華僑総会の場所です。そこに今も藤田家が築いたという当時の石垣が残っています。明治の初め、神戸に進取の気風をもった先人がいたことがうれしいですね。 実は、このようなことは、北野の庄屋だった西脇家に残る明治9年(1876)の地籍図やその他の文書がなかったら分からないことでした。この地籍図のおかげで、当時の地形や道などいろいろなことが分かってきました。「たくましさ」こそ神戸の礎 北野には外国人が多く屋敷を構えましたが、その中でも最も広大だったのがハンター邸です。現在のユダヤ教会あたりから浄福寺くらいまでがその敷地だったといいます。その当時ハンターさんはすでに神戸一の富豪でした。浄福寺の東側の道が広くなっているのは、ハンターさんが自分の馬車が通れるように道を広げたからなんです。浄福寺ではもともと西側にあった正門を、道路が拡幅したのを機会に東側に移したそうです。 やがて明治40年代になると北野は外国人の住居で飽和状態になり、安全で海の見える洋館建設に適した土地がなくなってきました。風見鶏の館は明治42年(1909)に、ため池の跡に建てられたのですが、もうそこにしか土地がなかったからだと考えられています。また、明治末年それほどに混み合うほど神戸が栄えていた証左なのかもしれません。 明治4年(1871)から人々に移動や職業選択の自由が与えられたこともあり、寒村だった神戸に発展とともに全国から人が集まり、やがてここに住み着きました。その人たちも一緒になって新しいものを積極的に取り入れ、神戸の発展の基礎を担ったのです。 神戸の人たちは「雑居地」の中で着飾らないナマの西洋人とご近所付き合いをして、自然な形で交流が行われました。そんな環境の中で神戸の人たちは、西洋の新しいものをどんどん取り入れ取捨選択をしながら、たくましく成長してきたのです。新しい文化を広く受け入れる「寛容性」と「積極性」は、間違いなく開港以来150年の間に、西洋人に学びながら神戸の人たちが啓培してきたレガシーであるといえます。そして、神戸の発展は何よりも神戸の人々の『たくましさ』があったから成し遂げられたのではないでしょうか。43

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