KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年4月号
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外国人居留地の場所が神戸村と生田川の間に決まりました。開港するのは当時栄えていた兵庫だというのが当時の人々の考えだったと思われますが、何もない神戸に港ができるなんて、誰も思っていなかったのですよ。北野の人たちも飛び上がって驚いたことでしょう。それから間もなく、1868年1月1日に神戸が開港します。しかし、ちゃんと居留地も港もできていない。これでは約束が違うとパークスたちは抗議します。明治新政府が成立していましたので、早速英蘭仏の3カ国は1868年3月京都に談判に行きます。発足後間もない明治政府は西洋の大国と渡り合う最初の外交として、威信をかけて対応しました。そして、日本人と西洋人が共に住む『雑居地』というシステムを採用することで柔軟に対応しました。これはある意味でリスクのある冒険ですが、英断だと思いますね。北野の人たちは神戸開港でビックリしたと思ったら、またビックリです。村の下の方の話だと思ったら、今度は外国人が生田川と宇治川の間ならどこに住んでも良いということになり、隣近所にあの外国人が住むことになったのですから。喜んだと同時に恐れもしたことでしょう。雑居地ができたことは、その後の神戸の性格を大きく決めることになりました。雑居地の中でも元町(神戸、二ツ茶屋、走水村)は早くから都市化して開けていきましたが、山手や北野、花隈あたりは比較的のどかでした。ぼちぼち発展していった感じです。一方、当時は電話や電報がなく、通信が発達していませんでした。ですからいつ自分の船が来るか知るために、船の出入りが見える場所が良かったのです。海が見えるところでないと商売が上手くいかなかったのですね。岩田さんが館長を務めた風見鶏の館。池を埋め立てて建設された41
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