KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年4月号
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外国人の記録を手がかりにすることはできます。幸いなことに外国の新聞の記事や文献に、神戸の人々がどのように反応したかが書かれているのです。恐れより好奇心が勝った? 大きく日本が変わるのは、ペリーが来航した1853年からですが、黒船が来たという情報はやがて神戸へも伝わってきます。元禄時代にはすでに、早馬と早駕籠で江戸の情報はこのあたりへも4日ほどで届いたといいますから、飛脚や船乗りたちによって神戸にもすぐに情報がやって来たと思われます。しかし、それは遠いところの話で「江戸の方でそんなことがあったのか」ということぐらいにしか思っていなかったでしょうね。 ところがペリーが1854年6月に2回目の訪問を終え日本を去ったその年の1854年11月8日に、兵庫にロシアのプチャーチンが来るのです。プチャーチンは非常に心が広く開放的な人物だったようで、兵庫の人たちが小舟で軍艦に近づいたら、上がれと誘ったのです。兵庫の人たちは上がって見物までしているんですね。怖くなかったのでしょうか、驚きますね(笑)。ところが、兵庫の奉行所は軍艦に近寄るなと禁止し、人々の関心はそれでしぼんでしまいました。 その後1862年ごろから兵庫にイギリスやフランスの外国船がたびたび来港するようになり、兵庫だけでなく神戸の村々も騒然となってきました。 1865年にイギリスからハリー・パークスが大使として日本にやって来ます。当時のイギリスは七つの海を制覇した世界一の大国です。パークスは条約で決まっていたにもかかわらずまだ実現していなかった兵庫の開港神戸村から北野町へ。外国人への土地貸与契約書。明治3年(1870)開港当時の神戸の人々の様子が記されている外国人の日記『メモリーズ』。居留地の造成に赤いちりめんを着て土を運んだと記されている38

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