KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年4月号
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師を勤めるなどして、平成4年(1992)に109歳で大往生を遂げるまでアメリカで祈りを捧げ続けた。 実は衛には大正8(1919)に誕生した健という息子がいた。健は利発で几帳面な一方、短気なところもあり、10歳の頃には白人相手にしばしば喧嘩をしていた。というのも当時、〝よそ者〟の日系人は「ジャップ」と蔑まされ差別の中にあり、白人から迫害を受けていた。しかし、健は自らをアメリカで生まれたアメリカ人と疑わず、差別が許せなかったのだ。 14歳のある日、父との齟齬が爆発し健は家を出てしまう。健はジョーと名乗り、農場の季節労働者〝ブランケットボーイ〟として各地を転々としながらイカサマ博打の腕を磨く。第二次世界大戦が勃発すると米軍の日系二世部隊に従軍、帰還後はニューヨークへ渡り、イカサマを見破られない完璧なカード捌きがイタリア系マフィアに認められのし上がる。 やがて先見的な舵取りで賭場を仕切り、バンディーノ・ファミリーとの熾烈な抗争をアル・カポネなき後のシカゴの大ボス、アイウッパの協力を得て制し、60年代にはシカゴ北地区全体を縄張りとするほどに。ラスベガスでもナイトクラブを経営するなど、日系人のドン〝モンタナ・ジョー〟の名は轟き、その人生に迫る映画も制作された。 聖職者の息子がギャングとは数奇な話だが、己の生き方を貫くという「血」は争えなかったようだ。衛は神の恩寵を確信していたからこそ、日系人の厳しい現実や、去っていった息子のことを思うと祈らないではいられなかったのだろう。生き馬の目を抜く裏社会でジョーが奇跡的に命を奪われなかったのは、もしかしたら父の祈りの恩寵なのかもしれない。 奮闘した2つの輝く星に、神戸の地より祈りを捧げたい。衛藤 衛(えとう まもる)牧師大分県生まれ。関西学院大学神学部卒業後、1917年、34歳で渡米し、牧師として永住を決意。1919年に長男・健が誕生するが、14歳のときに勘当する。その後、父子は顔を合わせることなく過ごし、1992年に109歳で死去衛藤 健(えとう けん)宣教師・衛藤衛の長男で、カリフォルニア生まれ。1950年代、シカゴの日本人街にポーカー・ゲームの賭博場を開くと、モンタナ・ファミリーを率い、マフィア間の抗争を経て勢力を拡大。日系人のドン「モンタナ・ジョー」として名を響かせた。2004年にジョージア州で死去※敬称略※兵庫県立神戸高等学校鵬友会発行の『鵬友』、村上早人著『モンタナ・ジョー マフィアのドンになった日本人』(小学館)などを参考にしました。写真/村上早人『モンタナ・ジョー マフィアのドンになった日本人』小学館、2004年15

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