KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年1月号
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神宮皇后凱旋の帰途、天照大御神荒御魂を祀る廣田神社は、神戸の生田神社、長田神社と共に神功皇后摂政元年(201)に創建されました。1800年以上の歴史をもつ3社とも「田」が付きます。豊作を導く「田たほめ褒」という言葉があるように田んぼがもつ意味は大きく、現在の芦屋、西宮、尼崎西部にまでわたる「廣田」は広い大きな田んぼ、生き生きした田んぼが「生田」、長い田んぼが「長田」という意味合いがあるのだと私は考えています。御祭神の天あまてらすおおみかみ照大御神荒あらみたま御魂は、神功皇后が建国初の海外遠征に大勝利を収めて瀬戸内海を通り難波宮に凱旋する途中、船が動かなくなり西宮の港に入ったところ、天照大御神荒御魂のおつげによりこの地に祀られたといわれています。昔の西宮は大きな入り江がある良港で、交通の要衝でもあったようです。大和朝廷としても押さえておくべき地であり、荒御魂を祀ることで、「ここは大和朝廷御祭神は「天照大御神荒御魂」。神功皇后の時代、天照大御神のおつげによりこの地に祀られたと伝わる古くから、京の都から西方にある特別な神社「西宮」と別称されていた。これが西宮の地名につながったとされるの直轄」と世に知らせる意図もあったのではないでしょうか。廣田神社の栄誉と苦難の歴史元々は、神宮皇后が甲かぶとを埋めたという言い伝えもある「甲山」の麓あたりだったようです。次第に人々が暮らす里へと下りてきたのですが、御手洗川が度々氾濫し何度も水害に遭ったため、享保9年(1724)に御社殿の位置を動かしています。明治4年(1871)に日本各地の神社が格付けされた際には、兵庫県唯一最高位である「官弊大社」に列せられました。官幣を一般に分かりやすくいえば、天皇家からお供えが届く神社ということです。第二次世界大戦中には軍人さんたちが武運長久を願いお参りするようになりました。ところが終戦を迎え軍国主義が否定されると、見向きもされない不遇な時期が続きました。最近はまた見直されるようになり、阪神タイガースの優勝祈願49

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