KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2017年1月号
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まざまな音楽会のルーツとなった。そして、この舞台をステップとして、さまざまな音楽家が羽ばたいていった。日本を代表するソプラノ歌手の市来崎のり子もその一人で、彼女の薫陶を受けた松本幸三、その子息の松本薫平と、銀之助から続く系譜は今も神戸に息づいている。 田中が神戸高等女学校を退職した昭和12年(1937)にこの発表会を受け継いだ八木真平は音楽教育に尽力した人物。県立第一神戸中学校(現在の神戸高校)をはじめ甲南女子高校・短大、親和女子大学、神戸大和女子短大などで教鞭を執り、音楽教育界を牽引するとともに『兵庫の音楽史』などの著作を残した。 田中は大正4年(1915)に大阪音楽学校(現在の大阪音大)を創設した永井幸次とも親しく、同校の指導者も兼務していたようだ。2人の共著『女子音楽教科書』は広く愛用されたという。 田中は大正に入ると作曲活動にも力を入れるようになったようだ。「おたまじゃくし」など郷愁を誘う童謡を生み出し、荒城の月の編曲もおこなった。また、勤務していた神戸高等女学校の校歌をはじめ、神戸を中心に数々の校歌も作曲している。神戸市立の小学校では福住小、稗田小、板宿小のほか、現在廃校になった北野小、入江小、下山手小、鵯越小、湊山小、志里池小の校歌を作曲。育英高校や武庫川女子大などの校歌も彼の手によるものだ。 彼が最後に作曲したのは、母校の大蔵小学校の校歌だったという。昭和22年(1947)に疎開先の郷里で没したが、彼の魂はその後多くの音楽家に受け継がれ、神戸で活躍する音楽家の多くは少なからず田中銀之助の流れを継いでいる。ひとつの音の波紋が広がり、時間や空間を超え楽曲となっていくように…。兵庫県立神戸高等学校鵬友会発行の『鵬友』などを参考にしました。田中 銀之助(たなか ぎんのすけ)作曲家明治13(1880)年、朝来郡和田山町高田の旧家の長男として生まれ、東京音楽学校(現・東京芸術大音楽学部)を卒業後、兵庫県立高等女学校(後の県ー高女・現神戸高校)教諭として勤務。明治42年には、後の大阪音楽大学学長、永井幸次氏との共著「女子音楽教科書」を刊行し、その本は全国の高等女学校で使われた。育英高校の校歌、武庫川女子大学校歌、神戸市歌等。戦争末期、実家の高田に疎開した銀之助は、昭和22年母校の大蔵小学校の校歌を書き上げた直後、亡くなった写真提供/田中音友堂19

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