KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2016年8月号
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水の関係で山の上の方から集落ができたことに由来します。芦屋の中興の祖といえば、『万葉集』にもその名が登場する猿丸太夫の子孫である猿丸家です。このあたり一帯の庄屋であった猿丸家は、江戸時代後期に水利権を整えるために奥池に人工の池を造り、そのため農業が安定することにつながりました。 芦屋はそれほど大きな街ではないのですが、由緒のある神社やお寺が多く見られます。六甲山は、奈良の三輪山のように、その山自体がご神体として信仰を集めていたともいわれますから、そういったことも関係するのかもしれません。―芦屋が邸宅街として人気を集めた背景には、どのような歴史があるのでしょうか。 大正時代に入り、大阪船場の商人たちが美しい砂浜が広がる芦屋の海辺に目をつけ、辺りをプロヴァンスになぞらえて平田町周辺から邸宅を造りはじめましたが、その地域は徐々に山の方へと広がっていきました。山の手エリアは元々里山であり、しっかりした岩盤があります。建物が建てやすい地盤の良い土地でしたので、その里山を切り拓いてお屋敷街にしたのです。そのため、里山の緑を活かした邸宅が多いのも特長です。京都の洛西、関東でいうと軽井沢や葉山といった邸宅街、別荘街を見ましても、自然を乱さず住まいが造られています。 芦屋神社があります東芦屋や、東山町も元々あった里山などの地形に沿って開発されていますので、利便性を追求した現代的な区画整備ではなく、道幅がせまいなど不便な点もありますが、その分、静寂があり閑静な雰囲気が感じられますね。―邸宅地の中に、美しい東山公園があるのも特徴的ですね。 地域の皆さんが力を合わせて手入れされているのも、元々あった自然を大切にしたいという地域の思いが受け継がれているからでしょう。ここに住む方々は、住環境に関してしっかりした考えをもっています。住まいの環境が良ければ良い仕事ができ境内には百人一首の歌で有名な猿丸太夫のお墓がある53

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