KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2016年7月号
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西に横切りますが、当時、西宮には駅がありましたが、芦屋にはありませんでした。明治の後期に苦楽園で温泉が発見され、やがて全国から省線の西宮駅を経てたくさんの湯治客がやって来るようになりますが、実はその頃、芦屋にも同じように温泉が湧出したのです。東芦屋から芦屋神社への参道の近くに泉芦屋の山手に佇む芦屋神社。芦屋の歴史を見守りつづける源が発見されたのですよ。芦屋温泉とよばれ、泉質は有馬の湯と同じような泉質で、木造平屋建ての料理旅館が営業していたようです。明治40年頃には浴場があり、その北側の桟敷では海の眺望を楽しみながらお弁当を食べることができたと伝えられています。苦楽園のように大規模な開発ではありませんでしたが、このことは芦屋が農村から健康地・保養地へと変貌する要因のひとつになったのではないでしょうか。郊外住宅地への変貌 一方で明治38年(1905)に阪神電車が開業し、芦屋に駅ができます。その影響もあり、大正期になると東芦屋周辺は別荘地化、邸宅地化していくのです。当時は例えば阪急宝塚線沿線のように電鉄会社や土地会社が宅地を開発していくケースが多々ありましたが、ここはちょっと様相が違い、富豪たちが自分たちで田畑や山林を購入し別宅にしていったのです。農業のみならず、水車による産業化に力を入れていた東芦屋の集落は進取の気風があったのか、このような近代的な別荘や別宅を受け入れていきました。 温泉地があり、豊かな自然に包まれた東芦屋周辺は、郊外生活にとって理想とも言える土地だったようです。温泉地として人を集め、やがてそこに人が住んでいくという感じだったのでしょう。当時の大阪は東洋のマンチェスターとよばれ、大気汚染などの公害が起きていました。そこで、摂津のフロンティアであった阪神間が保養地や移住地として注目され、「郊外生活のすすめ」などの冊子が発行され、大阪医科大学学長だった佐多愛彦博士ら医師も郊外への移住を奨励します。実際に佐多博士は東芦屋の山上に土地を購入し、そこから松風山荘の郊外住宅地が開発されていきました。 ところが芦屋温泉は大正初期に枯渇してしまいます。その温泉跡と、その上の里山約2千坪を全部買い取ったのが竹内才次郎(1851~1938)という人物です。41

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