KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2016年3月号
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五斗長垣内遺跡には建物跡が全部で23棟発見され、うち12棟が鍛冶工房であったことがわかっています。建物から出てくる土器を基準にすると、鉄器づくりが始まると同時に、大型の建物が出現し、少しずつ移動しながら建物がつくられ続けたようです。つまり、発見された23棟は同時期にそこにあった訳でなく、施設が更新されながら続いたということがわかったのです。 五斗長垣内遺跡は、卑弥呼が出てきた3世紀には鉄器生産が終わっていたようなんです。一方、舟木遺跡は、現在のところ鉄器は出土していませんが、五斗長垣内遺跡での鉄器生産終了後も、規模は少し縮小したようですが続いているんです。いずれも消滅した理由はわかりませんが、邪馬台国の時代になると急速に姿を消しますので、もしかしたら邪馬台国の影響があったのかもしれません。また、舟木遺跡は40ヘクタールくらいと面積が大きく、山上の遺跡群の中心的な役割を担っていた可能性があります。舟木遺跡は弥生社会の動きを解明する上で重要であり、五斗長垣内遺跡での鉄器生産の本当の意味を解明する上でも大きな鍵を握っているのです。 舟木遺跡は平成2年(1990)に発掘調査をおこなっていますが、それはほんの一部なんですね。それでも大きな建物の跡が発見されています。鉄器生産を連想させる資料も発見されていることから、五斗長垣内遺跡との関連を解明すべく、今年度から「淡路市国生み研究プロジェクト」を立ち上げて調査する予定です。調査により鉄器生産との関わりだけでなく、集落の役割などが見えてくると、当時の淡路島の役割がわかってくるかもしれません。 南あわじ市で銅鐸が発見されましたが、それも鉄器生産の謎を解明する鍵のひとつになるかもしれません。銅鐸が出てきた近くで銅剣も出てきています。弥生時代を解く手がかりとなる青銅器と鉄器が出てきていますので、今後の調査により淡路島の歴史的価値が再評価され、国生み神話に秘められた事実も見えてくるかもしれませんね。五斗長垣内遺跡は、弥生時代後期の国内最大規模の鉄器製造群落遺跡でもある舟木遺跡の住居跡から見つかった、器台型の土器五斗長垣内遺跡も舟木遺跡も、農地整備がきっかけで発見された31
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