KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2016年3月号
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 舟木遺跡も五斗長垣内遺跡も、農地整備がきっかけで発掘調査されました。前者は海抜約150メートル、後者は200メートルという高地の集落です。どうして山の上にあるのか大きな謎で、それが解明されれば淡路島の歴史的な重要性がわかるかもしれません。 五斗長垣内遺跡は、弥生時代に100年以上鉄器生産が続いていたことがわかっています。そのは五ごっさかいと斗長垣内遺跡と舟木遺跡邪馬台国の台頭とともに消えた山上の遺跡淡路市の北部では、弥生時代の鉄器づくりのムラだった五斗長垣内遺跡と、大規模な集落だったと推測される舟木遺跡が出現している。遺跡から解き明かされた事実は?邪馬台国との関係は?淡路市教育委員会の伊藤宏幸さんに話をうかがった。伊藤 宏幸(いとう ひろゆき)淡路市教育委員会 社会教育課 課長1960生まれ。1989年、津名町職員として採用。津名郡内の埋蔵文化財発掘調査、阪神淡路大震災の復旧・復興事業に伴う発掘調査等を経て、2005年より淡路市教育委員会 社会教育課 埋蔵文化財係長。2013年より、淡路市教育委員会 社会教育課 課長。淡路市の文化財保護活用のマスタープラン「淡路市歴史文化基本構想」を策定し、文化財を地域の資産として活かすことに取り組んでいるじまりは畿内の中枢部よりも早かったようです。このことは非常に大きな意味があり、当時の鉄器文化を解明する重要な遺跡です。ただ、周りの山の上にたくさんの遺跡が発見されており、その全貌が明らかにならないと五斗長垣内遺跡の本当の意味が見えてこないでしょう。 2つの遺跡はほぼ同時期、弥生時代後期の1世紀の前半から半ば頃に、突然山の上に現れています。邪馬台国とは少し時代は違いますが、『魏志倭人伝』によると2世紀の後半、卑弥呼が登場する直前の時代はクニとクニの争いが絶えず、邪馬台国の女王、卑弥呼の登場によりそれが治まったとされていますが、五斗長垣内遺跡の鉄器づくりの最盛期は2世紀の後半なので、争いの時期と重なるのですよ。出土した鉄器は矢じりが多いのですが、それが武器として使用された可能性もあります。舟木遺跡周辺は田畑や森林が広がる30

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