KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2016年3月号
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戸市東灘区で銅鐸や銅戈が発見された桜ヶ丘遺跡などの例やさまざまな研究者の説を紹介しつつ、弥生人の青銅器の価値観やムラからクニへの歩み、生産体制の変化など多角的な視座から埋納時期や遠隔地埋納の謎に迫った。 淡路と同じ神話の国、出雲で研究を重ねる島根県立八雲立つ風土記の丘所長の松本岩雄氏は、銅剣が358本出土した荒神谷遺跡や銅鐸が39個発見された加茂岩倉遺跡といった出雲の青銅器埋納の例を、松帆と比較しつつ紹介した。 弥生時代の社会に詳しい大阪大学大学院文学研究科 教授の福永伸哉氏は、松帆銅鐸は農耕祭祀に使用したものと推定。弥生時代中期末頃に西日本で平等な社会から支配階層が出現するという社会状況の変化があったが、そのために祭祀が上位階層のものとなったため銅鐸が不要となり供養として埋納したのではないかという説を紹介し、松帆銅鐸はヤマト政権国家形成の最初の動きだったのではと評した。 討論会では兵庫県立考古博物館館長の和田晴吾氏が司会を務め、松帆や淡路島の歴史的意義についてこの日の発表者全員に質問。定松氏は古代の地形から松帆周辺は良港であり、それが歴史的な位置づけに繋がると述べると、難波氏は西日本全体の視点から淡路島は瀬戸内の重要な交通路で、いろいろな大陸文化の畿内への入口だったのではないかと答えた。また、森岡氏は畿内の集団から早くから重要視されていたと考えられると話し、松本氏は淡路北部や東播に青銅器が少ないことから松帆を聖地として埋納した可能性に触れ、福永氏はその意味を知るためには松帆周辺の調査を進めれば見えてくるのではと回答した。 最後に、松帆銅鐸の活用について議論され、地域のシンボルとして積極的な活用や科学の力による謎の解明などさまざまな意見が飛び交い、第一級の史料としてだけではなく、地域の宝物として大切にしてほしいという思いが一致して、シンポジウムは幕を閉じた。2月7日 於・南あわじ市中央公民館赤文字の部分が今回の発見。時代的に古い点、複数出土した点が大きな発見とされている共伴銅鐸の型式組合せ(大阪大学大学院文学研究科 福永伸哉教授による作成)29

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