KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2016年3月号
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ころ、銅鐸を吊り下げる際には太さ2~3ミリの細い紐で何重にも巻き付けていたことが確認できました。手に持って鳴らしていたものではなく、吊り下げて使用していたことがはっきりしたのです。 今回、ひもや同時に埋まったと思われる植物が残っていますので、それらを科学的に分析すると何年に埋められたかがわかります。いまその測定をしている最中ですので、結果が出るのを期待してください。銅鐸の埋納時期については、これまでもいろいろな議論がありましたが、そのための重要な情報が得られることでしょう。 松帆銅鐸は7個出てきましたが、南あわじではこれまで、17世紀の終わり頃にも慶野中の御堂で8個の銅鐸が発見され、昭和41年(1966)には古こつろ津路で銅剣が14本出土しています。なぜこのあたりの狭い範囲で集中して青銅器が見つかるのでしょうか。 実はほかにもそういう場所があります。有名な場所は兵庫県の六甲山南麓で、4キロくらいの範囲から青銅器が多数出土しており、桜ヶ丘遺跡では銅鐸が14本、銅どうか戈が7本も出ています。出土した銅鐸大小さまざまで、いろんな形や模様のものが混ざっています。でも、この例のように雑多なものが集められることは、実は一般的ではないということが最近の研究で明らかになっています。島根県の加茂岩倉遺跡では39個の銅鐸が出ましたが、大きさや特徴が揃っています。おそらく1つの集団ないし親しい集団のグループが規格を揃えて集めたのでしょう。 松帆銅鐸は20センチくらいと30センチくらいが基本的なサイズで、時期的にも揃ったものが出ています。そして実は、同じ型でつくられた同どうはん笵銅鐸が確認できました。2号銅鐸と4号銅鐸が同笵で、近くの中の御堂で江戸時代に出土した日光寺所蔵の銅鐸も同笵であることはほぼ間違いありません。同笵関係を詳しく調べると、これらの銅鐸がどういう経緯で南あわじに埋められたのかががわかるかもしれません。今後の研究で明らかにしていきたいと思います。2月7日 於・南あわじ市中央公民館松帆地区の建材用砂礫から発見された7点の銅鐸。写真は1号銅鐸(菱環鈕式)松帆銅鐸をCTスキャンで解析すると、大小の銅鐸に挟まって舌が見つかった記念シンポジウムには多くの聴講者がつめかけた。関心の高さが伺い知れる27

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