KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2016年3月号
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西端にあって、瀬戸内海ルートをやってくる人・もの・情報の入口だったのでしょう。―邪馬台国もこの地にあったとお考えですか。和田 私は邪馬台国畿内説です。邪馬台国のころから、政権の中心が江戸に移るまで、畿内地域が政治・宗教・文化・経済等の中心でした。そうなりだしたのは銅鐸の時代の終わりごろからです。弥生時代の終わりごろになると、それまではおもに先進的な文化は中国や朝鮮のある西の方から伝わってきていましたが、この頃になると、次第に畿内から西へと向かう流れが出てきて、古墳時代にはそれが中心になっていきます。例えば、漁ぎょろう撈関係で言いますと、大阪湾沿岸で弥生時代の中ごろに使われはじめた飯いいだこつぼ蛸壷が、邪馬台国の時代には博多湾沿岸でも使われだしました。大阪湾あたりで作りだされた新型式の土どすい錘(魚を捕る網のおもり)もそうですし、多くの土器も同様な動きを見せます。畿内で生まれた文化が全国に広がっていくということは、畿内がだんだんと力を見せ始めたということでしょう。―御みけつくに食国といわれた淡路島からは、食べ物が出ていっていたということですね。和田 律令制が始まってから、全国それぞれの国に役割が与えられました。魚や貝や海草がたくさん採れて、それを加工する塩も作られていた淡路国は、皇室や朝廷に食べ物を献上する御食国に適していたのでしょう。―長い歴史の中での淡路島の存在とは。和田 瀬戸内海の東の突き当たりにあり、背後には大阪湾、その向こうには長く国の政治や文化の中心地であった畿内がありました。大阪港は東アジアに向かって開かれた湾であり港でした。そんな中で、淡路島はその西端に位置する要衝として大きな役割を果たしてきたことに間違いないと思います。―ありがとうございました。今後も調査研究に注目していきたいと思います。4月以降、和田館長を委員長とする調査委員会が設置される予定。本格的な調査・研究の進展が期待される南あわじ市、慶野松原の海岸付近から松帆銅鐸が発見された考古博物館に展示されている古代船の進水式。淡路島の古代人もこのような船で航海していたのだろう23

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