KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2016年3月号
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は限りません。銅鐸は一つの石の鋳型からいくつも同じもの(同笵鐸)を作れますから、遠く離れた土地で兄弟の銅鐸が見つかることもあります。今回発見されたものと同じような銅鐸が島根県の加茂岩倉遺跡からも見つかっていますので、両者の関連性を検証するのも今後の楽しみな課題のひとつです。―いよいよこれから、兵庫県での調査研究が始まるのですね。和田 そうです。南あわじ市が中心になって、奈良文化財研究所の協力も得ながら、調査研究を進める予定です。銅鐸そのものの研究もありますが、幸い入れ子状態で発見されましたので、銅イオンの殺菌作用が功を奏し、紐や緩衝材かと思われる植物など、有機物までもが残っていました。紐の素材や撚り方・組み方、あるいは埋納方法などが解明されるのではないかと思います。また、運がよければ、放射性炭素を利用した年代測定も可能かもしれません。文物や人の流れは次第に畿内から西へと向かう―国生み神話から考察する淡路島はどういう存在だったとお考えですか。和田 伊いざなぎのみこと弉諾尊と伊いざなみのみこと弉冉尊が天の沼ぬぼこ矛で大海原をかき回し、その滴が固まりオノゴロ島が誕生したという話から始まる国生み神話ですね。真偽のほどは別として、液体から固体が凝縮してくるという意味では、海水から塩を作る現象と似ています。大阪湾沿岸ではすでに弥生時代から土器を用いて塩を作ることが始まっていましたので、そのような集団が保持していた神話だという説があります。国生みの舞台は大阪湾だったというものです。この大阪湾を挟んで東側に、古墳時代以後は確実に国の中心となる畿内地域(後の律令制の時代に「畿内」と呼ばれた大和、山城、河内、和泉、摂津)があり、西側に淡路島があります。淡路島は畿内の銅鐸の紐をかける部分「鈕」の断面の形で、銅鐸の製造時期が分かる「菱環鈕2式」と呼ばれる、弥生時代前期の銅鐸。手前は「舌」(南あわじ市蔵)小さな銅鐸がはめ込まれた「入れ子」状態の銅鐸。銅の殺菌作用で、紐や緩衝材の有機物までもが残されていた(南あわじ市蔵)淡路島で塩作りに使われた製塩土器。国生み神話は製塩に由来するとも考えられている22

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