KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2016年3月号
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―いつの時代のものと推測されているのですか。和田 銅鐸は、比較的小型の音を鳴らして「聞く銅鐸」から、大型の音を鳴らさずに置いておく「見る銅鐸」へと変化して行きます。今回のものはいずれも小型の「聞く銅鐸」で、専門用語の分類名では菱りょうかんちゅう環鈕式1点と外がいえんつきちゅう縁付鈕式6点ということになり、銅鐸の中ではもっとも古い一群で、弥生時代中期初頭ごろ、実年代で紀元前2~3世紀ごろのものと考えられます。―「聞く銅鐸」ということは、音を楽しんでいたのでしょうか。和田 どんなふうに使っていたのかはまだ十分明かではありませんが、水稲農耕の時代ですから豊作を祈念するお祭りや、豊作を祝うお祭りで鳴らしたのではないかと考えられています。―何十年に一度の発見ともいわれる松帆銅鐸は、国宝クラスなのでしょうか。和田 重要文化財クラスのものとは言えますが、国宝に指定されるか…それはまだ分かりませんね。交易の中心だった淡路島松帆地区―松帆地区は当時どういう所だったのでしょうか。和田 現在は三原平野から海に向かって流れ出る三原川河口です。恐らく当時は、砂州が発達し、その内側には潟湖が広がっていて、当時使われていた丸木舟や、それを大きくした準構造船が停泊しやすい良港だったと考えられます。周辺の古津路で銅剣14本、慶野で銅鐸1点が出土していますし、中の御堂では銅鐸8点が出土したと伝えられています。当時は石器から、青銅器・鉄器へと移りかわるころですが、淡路島では、朝鮮半島から入ってくる鉄を使って鍛冶をしていた淡路市にある弥生後期の「五ごっさかいと斗長垣内遺跡」とともに非常に興味深い遺跡です。―そこから見えてくる弥生時代の暮らしとは。和田 スピードが速いか遅いかの違いだけで、人間はいつの時代も盛んに交流・交易をしています。当時も集団間のネットワークの中で人・もの・情報がさかんに動いていましたから、松帆の港は淡路島の交易の中心のひとつであったと考えられます。銅鐸もその土地で作ったものとナウマンゾウに挑む古代人の原寸大模型。テーマ展示室では、4つのテーマで兵庫の歴史を解明していく「ときのギャラリー」は、縄文時代から江戸時代までの土器の変遷を展示したコーナー子供も大人も、楽しく発掘や歴史の謎解きを体験できる博物館に隣接する国の史跡・大中遺跡を整備し、「播磨大中古代の村」としての公開・管理も行っている21
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