KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年9月号
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151有馬の湯なるべく仕事を少なくし戦うと思って、気の張る短編の仕事などは、月に一つ以上は書かないことにきめていたのだが、計画上の思いちがいが重なって、この八月に短編と中編を四つも書かねばならないハメになった。八月のへき頭、その量を思うと、さすがに怠け者の小生も、気が遠くなりそうだった.例によって神戸っ子の五十嵐さんから電話がかかってきたとき、「この月は、ぼんまは、かんにんしてほしいねん」と弱音を吐いたが、五十嵐という人は、そういうことに同情するような女性ではなかった。「あきません」といった。「そのかわり、有馬にしてあげます」「ほう、有馬。あれは神戸市かいな」「神戸市ですとも。神戸市に編入されてから、新たらしくボーリングをして、湯の温度も九○度になったし湯量もふえているんです」「わかった」私は、そこまで仕事をもってゆくことにした。「そのかわり、こんどだけは、たれも案内なしで行ってくる。宿屋だけはきめておいてください。なるべく、創業の古い宿屋がいい」そういうわけで、私は、重い資料をボストン・ハックにつめこんで有馬のH旅館に行った。車をおりて、「司馬です」と宿の老人にいうと、やや参しんげに私と案内者の人相をゑて、「そういうお名前の予約は承っておりません」という。われわれは荷物をもち、暑い玄関の外に立たされたまま、不審尋問(?)に答えねばならなかった。女中さんたちが、・ぼう然とわれわれを見ている.こういう所が、日本式の宿屋のいやな所だと思った。やっと、不審が晴れた。私の姓が、電話で伝えられたために、「志賀」と聞きまちがえたのだということだった。志賀という日本の作家は、志賀直哉氏のほかはいないから、私はよほどの老人とまちがえられたわけである.部屋は二階で「滝川」に面した風情(ふぜい)のよさそうな部屋だった.ここまで案内してくれた五十嵐、小泉両氏は、「この宿は、有馬ではいちばん古い宿です。ここは旧館で、いま別の場所に別館がたっています。ケーブル・カーまであるんです。でも、古い宿とおっしゃったもんですから、旧館をとっておいたん

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