KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年9月号
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つけられ、才能を削ぐような日常生活の繰り返しとなり特種なその学問はおいそれと彼を博士にしないのです。兄弟や近親者が学者としての仕事をし、海外に出ていったりすることが話題になれば、妻やその親たちは折りには無能呼ばわりをするというのだ。人間には人それぞれの運というものがある。その運に対処するに先ず自分を知り、夫を知り、あとは家族の努力によるというのが筋道だと思うのだが…。彼の家族は責めるばかりで、反省することを忘れているのだ。然しそうした一つの責任は彼にもある。結婚はそれぞれの育った家風を身につけた者同志が一緒になって作る家庭であれば、時には摩擦の起ることもありうる。それをどう折り合わせていくか。夫の家風にか、妻の方にか。lこの最初の心がまえが尾をひいていくのだ。その選び方が今後の家庭の明暗を定めることもある。しかし、今日の若い人たちはその両方ともの家風ではない、自分たちの家風を新らしく作っていくのだといわれるだろうし、それが正しいことにも思う。人生の墓場にしない結婚をlと希うものです。それは従妹のいう「飽かれぬ」人間になることであり、どこからでも幸を見つける人でありたい。適度の夢を持つということも大切で、大きすぎる夢にはともすれば不平不滴がかもし出されやすいもので、そのために一層夢から見放されるようなことにもなりかねない。とかく人間は自分には点が甘いものだが、かけ値のない自分を知り、次に夫を知ることlこれもかけ値のないものを。そこから割り出した夢を持つこと、それはどんな形のものであってもいい、夢を持つということは向上することであり、夢の実現への努力は、人生に働き甲斐を見出すことでもある。その夢が適度のものであれば崩れても崩れても、夢を失はないようにすること、そんな人であることによって夢は実を結ぶものだ。この夢という文字を「幸」と書き換えてもいい。幸とは心の持ち方一つで、誰れにでも来るものであることを私は信じている。f//P1511

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