KOBECCO(月刊 神戸っ子) 1961年9月号
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汁「。1111「値段」をきいているのだなということがわかったのです。なるほど箱根を越えて西方へくると「一銭、二銭」というお金の数え方が「一(いち)ボ、二(に)ボ」というのであろうと早合点して「二十五ボ(銭)だ」と答えた笑い話もありました。言葉といえば、ことに関西弁でしゃべる先生の講義がチンプンヵンでさっぱりわからず、姉弟三人がおかげで学校の成績が落ちるという笑えぬ悲劇もありました。もっとも、先生の耳なれぬ講義のためいまだに記憶しているというものもあります。その一例、地理の時間に聞いた「風化作用」は、おそらく一生忘れることはありますまい。「山があるやろ。風が吹きよるやろ。雨も降りよる」この辺までは、いかな私にも理解できました。ところが、その次ぎに先生がいった「ぼんでな’」からがさっぱりです。「せ’んどしたら(長い間経ったらの意)、へくちようなる(減ってくるの意)」この「風化作用」だけは、忘れられません.××××女学校は、いまの夢野台高校の前身、県立第二高女の第一回卒業生です。あのころの県立高女といえば、コチコチで、映画へ行っても停学というほどやかましい時でしたが、大いに軟派をはっていたものです.毎月宝塚にも通ったし、新開地でもよく遊びました.当時は「ええとこ、ええとこシューラッ館」といって神戸でピヵーの映画館「集楽館」で、若き乙女の夢をもやしたものです。夏になれば市電往復切符をもって、熊内四丁目から須磨の離宮前によく泳ぎに行きました。緑にめぐまれた六甲や摩耶も私には、懐しい場所です幼い頃になじんだ「神戸」は、戦争のため昔のままの面影を残しているところはほとんどなく、なんだか淋しい気もするけれど、私にとっては「第二のふるさと」と

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